慶長9年(1604年)、築城・縄張の名人、伊予半国20万3000石の大守・藤堂高虎(とうどうたかとら)により完成したのが今治城(いまばりじょう)。海上の要衝・来島海峡(くるしまかいきょう)に面した今治港の南、三重の濠に海水を引き入れた珍しい海岸平城で、濠には御船蔵も設置。日本三大水城、日本100名城にも選ばれています。
模擬天守の最上階からは来島海峡を眺望
今治城の城域は一辺600mの正方形で、中央部に本丸、二の丸、三の丸を配し、櫓数は23。
周囲に幅50mの内濠、さらに中濠、外濠を構え、海水を引き入れていました。
濠に海からの水を引き入れることで海への出入りが可能となり、海戦にはうってつけの構造だったと推測できます。
当時、外濠の外周は8町16間四方あったといわれますが、現在は本丸と二ノ丸、内堀、石垣が残るのみ。
石垣は野面積み(のづらづみ)で、石垣下部の水際には幅4~5mの犬走りが設けられていました。
5層6階の模擬天守は昭和55年に再建されたもので、最上階からはしまなみ海道の来島海峡大橋が一望のもと。
内部には藩主着用の甲冑や武具、刀剣、今治城絵図、藩絵師の掛軸屏風などが展示されています。
毎日、日没30分後から23:00まで夜間のライトアップも実施。
ちなみに藤堂高虎は、慶長13年(1608年)、伊賀一国と伊勢8郡を領有し、今治城天守は解体され、大坂まで舟で運ばれて、丹波亀山城(天下普請で築城し、藤堂高虎が縄張りを担当)に移築されたと伝えられています(諸説あります)。
つまりもし今治城に天守があったとしても、わずか数年ほどということに。
江戸時代には本丸の北隅櫓が代用天守として機能していました。
寛永12年(1635年)、伊勢国長島城から松平定房が入城し、以降明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となりました。
明治2年に廃城となり、ほとんどの建物が破却されています。
昭和55年に本丸北隅櫓跡に天守(亀山城天守の外観を参考にていますが、史実には基づかない模擬天守です)が復興したほか、昭和60年に東隅櫓(御金櫓=内部は郷土作家の美術館)が写真をもとに再建、平成2年には二の丸西隅に山里櫓(内部は武具や古美術品を展示)が再建されています。
さらに築城400年を記念して、平成19年に鉄御門(くろがねごもん)、多聞櫓5棟が忠実に復原され、内部が公開されています。
鉄御門の横にある今治城で最大の巨石「勘兵衛石」(かんべえいし)は、藤堂高虎の重臣で今治城の築城総奉行だったと伝えられる渡辺勘兵衛に由来する石です。
縦2.4m、横4.6m、重16.5tの巨石を登城ルートに置いたのは、城主の力を誇示するためのものと推測できます。
今治城 | |
名称 | 今治城/いまばりじょう |
所在地 | 愛媛県今治市通町3-1-3 |
関連HP | 今治城公式ホームページ |
電車・バスで | JR今治駅からせとうちバス今治営業所行きで7分、今治城前下車 |
ドライブで | 西瀬戸自動車道今治ICから約4.6km |
駐車場 | 41台/有料 |
問い合わせ | 今治城 TEL:0898-31-9233/FAX:0898-31-9235 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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