中世に尾張国守護所があり尾張の中心地だった清須(清洲)。1555(弘治元)年に織田信長が那古野城(なごやじょう=名古屋城の前身)から入城し、この清須を拠点に尾張統一を果たし、天下布武への足がかりを築きました。今川義元を討った桶狭間(おけはざま)の戦いにもこの清洲城から出陣しています。
織田信長は清洲城を足がかりに天下布武を実現!
それまで織田家と松平家(徳川家)は対立状態にありましたが、家康が清州城に足を運び、同盟を結ぶことによって、織田信長の天下統一が始まったのです。
同盟を足がかりに1563(永禄6)年、美濃国・斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は織田家の番城となっています。
1582(天正10)年、本能寺の変で信長が討たれたあとには、この清洲城で清洲会議(映画は『清須会議』)が開かれています。
清洲(清須)城下は、天守を中心に東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域都市を形成し、江戸時代初期には「天下の名城」と讃えられていました。
最盛期には城下に6万人が暮らしたという。
ちなみに清洲、清須という表記は、『信長公記』では「清洲」、江戸時代初期の『三河物語』では「清須」と記載され、両方が使われていたと推測できます。
江戸時代には清洲越しで城と城下町が名古屋に移転
徳川家康は、1610(慶長15)年に清須城(清洲城)廃城と名古屋城築城を命じ、城下ごとの移転という「清須越し」が行なわれています。
近年の研究では、天正地震など地震の際に液状化する地盤を嫌い、地盤の堅い名古屋の台地に城を移したことが明らかになっています。
清洲城の天守または小天守の部材を転用または、移築したものとされる名古屋城御深井丸西北隅櫓は現存し、国の重要文化財に指定されています。
現在の天守は平成元年に完成した模擬天守。創建当時の絵図が残っていないため、戦国時代の城の規模も不明なのです。
鉄筋コンクリート造りの内部は博物館になっていて、羽柴秀吉、山内一豊(後の掛川城主、高知藩主)などの武将が暮らした城下町の解説など興味深い展示がされています。
ちなみに模擬天守が建てられた場所は、往時の天守台ではなく、五条川の対岸に位置する清洲公園・清洲古城跡公園がかつての天守台跡。つまり、現在の模擬天守は場所も戦国時代とは異なっているので、登城にあたってはその点にも留意を。
名古屋城に現存する西北隅櫓(国の重要文化財・三重櫓)は、清州城の小天守を移築したものとの伝承がありますが、解体修理の際に移築された建築物であることが裏付けられています。
映画『清須会議』は、かなりの部分がフィクション!?
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席。
羽柴秀吉は、織田信長の嫡孫にあたる織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立に成功します。
清洲会議(清須会議)の結果、信長の次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、秀吉は山城国を保有しました。
清洲会議(清須会議)で秀吉と柴田勝家との対立が決定的となり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながっています。
以上が物語的な清洲会議(清須会議)で、実は会議における羽柴秀吉の三法師擁立を裏付ける史料はなく、実は中立だったというのが史実。
残念ながら清清洲会議(清須会議)当時の清洲城がどんなものだったのかはわかっていません。
清洲城 | |
名称 | 清洲城/きよすじょう |
所在地 | 愛知県清須市朝日城屋敷1-1 |
関連HP | 清須市公式ホームページ |
電車・バスで | JR清洲駅、または、名鉄新清洲駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東名阪自動車道清洲東ICから約1.5km |
駐車場 | 清洲城駐車場(120台/無料) |
問い合わせ | 清洲城管理事務所 TEL:052-409-7330 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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