徳川家康が参戦した最初の大規模な合戦は、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)。「どうする家康」と窮地に立たされたことも何度もありながら、ついに天下人となるまでの、9ヶ所の激戦地(古戦場)を、現地の詳細情報をサイト内リンクしながら年代順に紹介します。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)|愛知県名古屋市・豊明市
所在地:愛知県豊明市栄町、名古屋市緑区桶狭間北3
合戦の年月日:永禄3年5月19日(1560年6月12日)
おもな敵対関係:織田信長軍VS今川義元軍
内容:2万5000の兵をもって2000の織田軍に敗れ、首を討ち取られた今川義元の墓周辺は小さな公園として整備されています(愛知県豊明市)
豊明市側の桶狭間古戦場(桶狭間古戦場伝説地)と、名古屋市緑区側の桶狭間古戦場公園があり、一帯が桶狭間の戦いの地
松平元康(徳川家康)は、先鋒隊として大高城に物資を届け、そのまま城主として残り、織田軍に包囲されて窮地に立ちますが、今川義元が討たれたため、岡崎城に逃げています(結果として今川家の人質から離脱)
NHK大河ドラマ『どうする家康』の第1回は、「どうする桶狭間」で、敵軍包囲の大高城でどうするのかがテーマに
姉川の戦い|滋賀県長浜市
所在地:滋賀県長浜市野村町
合戦の年月日:元亀元年6月28日(1570年7月30日)
おもな敵対関係:織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍
内容:尾張・美濃を従えた織田信長の近江侵攻で、近江の浅井長政(妹・お市の方は信長と政略結婚)、越前の朝倉義景と緊張関係になり、ついに姉川で激突
徳川家康は信長と清洲同盟を結んで、同盟関係にあったため、出陣し、竜ヶ鼻に布陣
二俣城の戦い|静岡県浜松市
所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
合戦の年月日:元亀3年10月16日(1572年11月21日)
おもな敵対関係:徳川家康軍VS武田信玄軍
内容:遠州二俣は信濃国(長野県)側から見れば遠州の入口で、舟運の拠点となる場所で、浜松城と高天神城(たかてんじんじょう/現・掛川市)のちょうど中間地点に位置する二俣城は、家康と遠州侵攻を目指す信玄の攻防の地
天竜川に大量の筏(いかだ)を流して水の手櫓を破壊し、ついに二俣城を落城し、降伏・開城、徳川家康は二俣城を失い、信玄の西進を許すことに
三方ヶ原の戦い|静岡県浜松市
所在地:静岡県浜松市北区根洗町784三方原墓園
合戦の年月日:元亀3年12月22日(1573年1月25日)
おもな敵対関係:徳川家康軍VS武田信玄軍
内容:西進・上洛を目ざす武田信玄軍2万7000と阻止しようとする徳川家康軍1万1000(うち信長軍3000)が浜松にある三方ヶ原台地で激突
家康軍(鶴翼の陣)は、武田軍は魚鱗の陣に対してわずか2時間の戦闘で歴史的大敗を喫し、浜松城に逃げ帰る途中、家康は馬上で脱糞したと伝えられるほど
顰像(しかみぞう)と呼ばれる似顔絵を描かせて終生、この敗戦を戒めにしたというのは俗説で、正しくありません
長篠の戦い|愛知県新城市
所在地:愛知県新城市
合戦の年月日:天正3年5月21日(1575年6月29日)
おもな敵対関係:徳川・織田連合軍VS武田勝頼軍
内容:武田信玄の遺志を継いだ武田勝頼は、三河に侵攻し、長篠城を包囲
武田軍に包囲され籠城した長篠城を救援するため徳川家康は設楽原に出陣し、弾正山に陣を構えています
徳川・織田連合軍は武田の騎馬隊に対し馬防柵を設置し、その背後に鉄砲隊を並べて抗戦したと伝えられています
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)も武勇でも有名な合戦です
高天神城の戦い
所在地:静岡県掛川市上土方嶺向・下土方
合戦の年:第一次=天正2年(1574年)、第二次=天正8年(1580年)
おもな敵対関係:徳川家康VS武田信玄・武田勝頼
内容:「高天神を制するものは遠州を制す」といわれた重要な決戦
第一次高天神城の戦いで、高天神城を失い、三方ヶ原の戦いで手痛い敗北をした徳川家康ですが、長篠の戦いで武田勝頼が退いたため、高天神城を奪回します
小牧・長久手の戦い|愛知県長久手市、小牧市、日進市など
所在地:愛知県長久手市、小牧市、日進市など
合戦の年:天正12年(1584年)
おもな敵対関係:徳川家康・織田信雄VS羽柴秀吉(豊臣秀吉)・羽柴秀次
内容:織田信長が本能寺で討たれ、羽柴秀吉が後継として台頭して以降の徳川家康との覇権争い
家康は清州城に入った後、小牧山城に本陣を移し、秀吉は犬山に布陣
その後、羽柴秀次軍の動きを見て、家康は小幡城に移動するなど、
長久手合戦では家康軍が勝利を収め、秀吉軍には多数の戦死者が出ています
岩崎城の戦いなど、半年ほど小競り合いが続いた後、織田信雄が講和を受け入れ、家康軍は退却します
関ヶ原の戦い|岐阜県関ケ原町
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町
合戦の年:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
おもな敵対関係:徳川家康(東軍総大将)VS石田三成(西軍総大将・毛利輝元)
内容:徳川方と、豊臣方の天下をかけての「天下分け目」の合戦
豊臣方の敗北で、豊臣政権が崩壊し、江戸に徳川幕府が開かれます
大坂の陣|大阪府大阪市
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城3-11
合戦の年:慶長19年(1614年)=大坂夏の陣、慶長20年(1615年)=大坂冬の陣
おもな敵対関係:徳川家康VS豊臣秀頼
内容:慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍となり、徳川秀忠の娘・千姫が豊臣秀頼に輿入れ
家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府での大御所政治を開始
臣下の礼を秀頼に要求するも淀君が拒否し、方広寺鐘銘事件などもあり、ついに大坂夏の陣開戦となるも、堀の埋立で和睦
豊臣方は籠城戦に備え、兵糧や弾薬を城内に取り込むも、大坂夏の陣で壊滅、豊臣家の終焉となりました
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