関ヶ原古戦場・開戦地

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で行なわれた、「天下分け目の戦い」関ヶ原の合戦。東軍の先陣は福島正則と事前の軍議で決められており、井伊直政の抜け駆け的に開始したとも伝えられていますがあくまでそれは限定的。関ヶ原古戦場を訪れるなら、まずは開戦地へ。

「天下分け目の戦い」はここに始まる!

天下分け目の関ヶ原合戦は、天満山に布陣する宇喜多秀家隊へ、徳川四天王の一人である井伊直政の部隊が鉄砲を放って開戦しています。
しかし、これは松平忠吉(まつだいらただよし=徳川家康の四男で井伊直政の娘婿)に一番槍の功名をという井伊直政の焦りからくる、軍議違反。
しかし、松平忠吉は、島津豊久を討ち取るなどの功を挙げ、清洲52万石の藩主となりますが、1607(慶長12)年、腫物を患い28歳で没しています。

直後に井伊直政隊に先を越された福島正則も、小西行長隊や宇喜多秀家隊と交戦状態となります。
こうして、9月15日朝、関ヶ原の合戦は火蓋が切られました。

時代劇などでは騎馬隊や足軽隊の戦闘シーンを目にしますが、両軍総勢20万人のうち、鉄砲隊は2万人ほど。
つまりかなりは鉄砲を使った近世的な戦いになっていました。

北天満山の麓、西田運動公園に「史蹟 関ヶ原古戦場 開戦地」の石碑立っています。
かたわらに翻る「兒」の旗印は宇喜多秀家のもの。
児島高徳の後裔と伝わる宇喜多家は、児島の児(兒)を旗印に用いていました。

様々な史料から、実際の開戦地は、「史蹟 関ヶ原古戦場 開戦地」の石碑から300m〜500mほど南側、宇喜多秀家の陣跡の目の前とされています。
農地改良事業などで、西田運動公園に石碑が移されたというのが真相です。

関ヶ原古戦場・開戦地
名称関ヶ原古戦場・開戦地/せきがはらこせんじょう・かいせんち
所在地岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
関連HP関ケ原観光協会公式ホームページ
電車・バスでJR関ヶ原駅から徒歩18分
ドライブで名神高速道路関ヶ原ICから約2km
駐車場10台/無料
問い合わせ関ケ原観光協会 TEL:0584-43-1600/FAX:0584-43-0915
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
小早川秀秋陣跡

関ヶ原古戦場散策 小早川秀秋コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で小早川秀秋の足跡をたどる散策コースが、小早川秀秋コース。1万5000の軍勢を率いて松尾山に陣取った小早川秀秋ですが、黒田長政らの調略を受けており、東軍として参戦。比高180mほどの松尾山に登

関ヶ原古戦場散策 福島正則コース

関ヶ原古戦場散策 福島正則コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で、福島正則関連の陣跡をめぐるのが福島正則コース。秀吉とは従兄弟(いとこ)という間柄ながら東軍の先鋒を務め、宇喜多秀家軍と激突しています。全行程6.7km、所要1時間45分ほど。比較的平坦なコ

関ヶ原古戦場散策・黒田長政コース

関ヶ原古戦場散策・黒田長政コース

「岐阜関ケ原古戦場記念館」が設定する関ヶ原古戦場で東軍の知将・黒田長政(黒田官兵衛の子)の関連の史跡をたどる散策コースが、黒田長政コース。関ヶ原合戦では事前の調略、そして実際の戦闘でも活躍を見せ、東軍勝利の立役者となっています。東軍に開戦の

関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡

関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、関ヶ原合戦で西軍の総崩れの中、中央突破で脱出を図った「島津の退き口」ゆかりの地が、関ヶ原古戦場・島津義弘陣跡。小池神明神社の北、すぐ南側に開戦地がある場所で、西軍のほぼ中央に布陣しています。笹尾山に陣取った石田三成隊か

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

関ヶ原古戦場・小西行長陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、天下分け目の戦い、関ヶ原合戦で西軍の将として布陣。陣を構えたのは、開戦地に近い北天満山で、現在の西田公園あたりが関ヶ原古戦場・小西行長陣跡。北は北国街道、南は中山道を抑えるという要衝で、合戦の火蓋が切られると北天満山か

藤堂高虎・京極高知陣跡

関ヶ原古戦場 藤堂高虎・京極高知陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、東海道新幹線の車窓から眺める関ヶ原古戦場には、東西両軍の武将が陣取った陣跡が表示され、陣跡を巡る散策が人気となっています。関ケ原町立関ケ原中学校のすぐ北側にあるのが藤堂高虎・京極高知陣跡。その西には福島正則陣跡もあり、

関ヶ原古戦場・福島正則陣跡

関ヶ原古戦場・福島正則陣跡

岐阜県不破郡関ケ原町、東山道(近世の中山道)不破関の東、春日神社が、関ヶ原古戦場・福島正則陣跡。福島正則は、おね(北政所)と頂点とする尾張・武断派と、茶々(淀殿)を頂点とする近江・文治派との対立の際には、石田三成襲撃事件をも起こした武断派で

黒田長政・竹中重門陣跡

関ヶ原古戦場 黒田長政・竹中重門陣跡

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で行なわれた天下分け目の関ヶ原合戦。関ヶ原古戦場の岡山(丸山)烽火場にあるのが、黒田長政・竹中重門陣跡。竹中半兵衛と黒田官兵衛(「両兵衛」)の息子がふた

関ケ原陣跡制覇ウォーキング

関ケ原陣跡制覇ウォーキング|2024

 2024年9月29日(日)8:30〜16:00、岐阜県不破郡関ケ原町で『関ケ原陣跡制覇ウォーキング』。旧暦9月25日の関ヶ原の闘いにちなみ、各武将の陣営を巡る異色のウォーキングです。参加費1000円、募集人数は1200人で、心

徳川家康ゆかりの合戦

徳川家康ゆかりの合戦 9選

徳川家康が参戦した最初の大規模な合戦は、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)。「どうする家康」と窮地に立たされたことも何度もありながら、ついに天下人となるまでの、9ヶ所の激戦地(古戦場)を、現地の詳細情報をサイト内リンクしながら年代順に紹介

関ヶ原古戦場・決戦地

関ヶ原古戦場・決戦地

西軍有利な陣形で望んだ合戦(西軍は「鶴翼の陣形」)は序盤、実働部隊としての数で劣る西軍優勢で展開しますが事前に東軍に通じていた小早川秀秋隊の背反を契機に形勢は逆転。西軍の諸将が敗走するなか、関ヶ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが笹尾

関ヶ原古戦場・徳川家康最後の陣跡

東海道本線関ヶ原駅の北側、陣場野公園の一角にあるのが徳川家康最後の陣跡。中山道・関ヶ原宿の東、桃配山に陣を構えた家康は、合戦の最中に、東軍の動きを確認するため石田三成が陣を構えた笹尾山の東南1kmに位置する陣場野に陣を敷いています。家康は最

関ヶ原古戦場・徳川家康最初の陣跡(桃配山)

関ヶ原宿から中山道を東の垂井宿を目ざすと関ヶ原の東の入口に位置する小高い丘がある。ここが桃配山。東側から関ヶ原を俯瞰できる地で、ここに関ヶ原に布陣した東軍・徳川家康は合戦の当初、この桃配山に陣を構え、戦(いくさ)の成り行きを見守ります。桃配

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ