三方ヶ原古戦場(三方ヶ原古戦場碑)

三方ヶ原(みかたがはら)は、浜松にある台地。上洛を目ざす武田信玄軍2万7000と阻止しようとする徳川家康軍1万1000(うち信長軍3000)が浜松にある三方ヶ原台地で激突したのが1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦い。徳川家康が命からがら浜松城へと逃げ帰った三方ヶ原古戦場には、三方ヶ原古戦場碑が立っています。

家康が信玄に大敗を喫した古戦場

1562(永禄5)年、徳川家康は織田信長と清洲同盟を締結。
1567(永禄10)年に信長は岐阜・金華山の稲葉山城を攻め落とし、岐阜城を築城。
尾張・美濃を平定し肥沃な濃尾平野のすべてを手に入れています。

これは西進を図る信玄にとっては非常に脅威で、1571(元亀2)年末に後北条氏との甲相同盟を回復させると駿河を確保し、遠州(静岡県西部)に大軍で攻め寄せます。

徳川家康の本拠である三河には武田信玄の配下である山県昌景が侵入。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦いでは遠州の兵力8000のみという家康軍(鶴翼の陣)は、武田軍は魚鱗の陣に対してわずか2時間の戦闘で歴史的大敗を喫しています。

浜松城に逃げ帰る途中、家康は馬上で脱糞したと伝えられるほどで、あえて顰像(しかみぞう)と呼ばれる似顔絵を描かせて終生、この敗戦を戒めにしていたとも。

家康は浜松城の城門を開いて篝火を焚く「空城計」(くうじょうけい)を行ない、武田軍の追撃をギリギリでかわして九死に一生を得ています。

浜松市営三方原墓園の駐車場の片隅に三方ヶ原古戦場碑が立てられてはいますが、実は碑面にも合戦の場所は定かではないと記されています。
三方ヶ原台地の北端ではなく、祝田坂あたりという説もあるのです。

浜松市博物館には明治18年に作成された三方ヶ原の合戦の錦絵『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』も収蔵されているので、あわせて見学を。

三方ヶ原古戦場(三方ヶ原古戦場碑)
名称 三方ヶ原古戦場(三方ヶ原古戦場碑)/みかたがはらこせんじょう(みかたがはらこせんじょうひ)
Mikatagahara Old battlefield
所在地 静岡県浜松市北区根洗町784三方原墓園
関連HP 浜松市公式ホームページ
電車・バスで JR浜松駅バスターミナルから遠鉄バスで36分、三方原墓園下車、徒歩すぐ
ドライブで 東名高速道路浜松西ICから約5km
駐車場 浜松市営三方原墓園駐車場を利用
問い合わせ 浜松市企画調整部広聴広報課 TEL:053-457-2021
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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