著名な戦国武将のなかで、もっとも敗北と挫折が多かったのが、徳川家康かもしれません。太平の世といわれる徳川の治世をもたらすまでに家康に訪れた三大危機を紹介しましょう。松平家康の三河統一過程での三河一向一揆、信玄西上作戦による三方ヶ原の戦い、そして本能寺の変による大脱出・伊賀越えです。
三河一向一揆|愛知県
時代:永禄6年(1563年)〜永禄7年(1564年)
場所:三河国西部(西三河=愛知県安城市など)
内容:本證寺(本證寺城/愛知県安城市野寺町野寺26)の空誓(くうせい/蓮如の曾孫)が浄土真宗(現在の真宗大谷派)門徒に岡崎城主・松平家康との抗争を呼びかけました
家康は西三河統一のため、浄土真宗寺院の守護使不入(しゅごしふにゅう)の権利を剥奪しようと考え、一向一揆へと発展
守護使不入は、室町幕府が守護大名に対抗する効果がありましたが、守護大名にとっては治外法権となる地が領内に生まれ、とくに浄土真宗の影響が強い三河では深刻な問題でした
現場検証するなら:周囲を土塁、水濠で固め、鼓楼を有する城郭寺院の本證寺(本證寺城)、家康の忠臣・酒井正親(さかいまさちか/酒井政家)が城主を務めた西尾城(西尾城の南西5kmに本證寺)などを訪れましょう
三方ヶ原の戦い|静岡県
時代:元亀3年12月22日(1573年1月25日)
場所:遠州国(静岡県浜松市中央区)
内容:天竜川の扇状地が隆起した台地の三方ヶ原で、武田信玄と徳川家康が激突
信玄は相模の今川氏と甲相同盟を復活させ、駿河に進行、信玄と織田信長の同盟関係もあって、信長の家康への援軍は限定的となり、窮地に追い込まれます
信玄は浅井氏・朝倉氏に織田信長への牽制を要請し、西上作戦を開始し、信玄率いる2万の大軍(加えて北条氏の援軍2000人)は、青崩峠(信濃と遠州の国境/現・長野県飯田市と浜松市の境、旧塩の道)から遠州へと進軍。
別働隊の山県昌景軍は信濃から三河へ侵攻し、家康を挟み撃ちにする絶体絶命の大ピンチに。
浜松城での籠城戦をする予定を家康は三方ヶ原に出陣して武田軍を迎撃、死傷者2000人という大敗北を喫し、家康は馬上で脱糞するという悲惨な姿で、浜松城に逃げ帰っています
大敗北を喫した家康は、一矢を報いるため犀ヶ崖(さいががけ)で奇襲をかけています
現場検証するなら:合戦の場所は定かではありませんが三方ヶ原古戦場(三方ヶ原古戦場碑)、犀ヶ崖古戦場、犀ヶ崖資料館、浜松城
伊賀越え|大阪府・京都府・滋賀県・三重県
時代:天正10年6月2日(1582年6月21日)直後
場所:伊賀国柘植(三重県伊賀市)ほか
内容:本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた際、家康は堺(大阪府堺市)の妙国寺に滞在していました
京への上洛途中で、京の豪商・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう=徳川家の呉服御用)に信長死去の報を受けた家康は光秀の追討を避けるため、宇治田原城(京都府宇治田原町)から信楽へ入り、甲賀武士五十三家のひとり・多羅尾光俊の屋敷で1泊
近江国甲賀(滋賀県甲賀市)などを抜け、桜峠(三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の境)を越えて伊賀に入り、柘植から加太越(かぶとごえ/伊賀市・亀山市)で伊勢国に入り、伊勢国長太(なご/鈴鹿市)で船に乗り、伊勢湾、三河湾を航行、三河国大浜(愛知県碧南市)で上陸、岡崎城に帰還しています
酒井忠次など徳川四天王など重鎮が揃っていたため、明智勢、落ち武者狩りなどに襲われていたら大きく歴史は変わっていたでしょう
現場検証するなら:「神君伊賀越え」の起点といわれる堺市の妙国寺、伊賀衆(伊賀忍者)の活躍を今に伝える甲賀流忍術屋敷など
実際の退却ルートは定かでない部分もあります
| 【その時、歴史は動いた!】家康の三大危機を現場検証する | |
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