【その時、歴史は動いた!】家康の三大危機を現場検証する

著名な戦国武将のなかで、もっとも敗北と挫折が多かったのが、徳川家康かもしれません。太平の世といわれる徳川の治世をもたらすまでに家康に訪れた三大危機を紹介しましょう。松平家康の三河統一過程での三河一向一揆、信玄西上作戦による三方ヶ原の戦い、そして本能寺の変による大脱出・伊賀越えです。

三河一向一揆|愛知県

時代:永禄6年(1563年)〜永禄7年(1564年)
場所:三河国西部(西三河=愛知県安城市など)
内容:本證寺(本證寺城/愛知県安城市野寺町野寺26)の空誓(くうせい/蓮如の曾孫)が浄土真宗(現在の真宗大谷派)門徒に岡崎城主・松平家康との抗争を呼びかけました
家康は西三河統一のため、浄土真宗寺院の守護使不入(しゅごしふにゅう)の権利を剥奪しようと考え、一向一揆へと発展
守護使不入は、室町幕府が守護大名に対抗する効果がありましたが、守護大名にとっては治外法権となる地が領内に生まれ、とくに浄土真宗の影響が強い三河では深刻な問題でした
現場検証するなら:周囲を土塁、水濠で固め、鼓楼を有する城郭寺院の本證寺(本證寺城)、家康の忠臣・酒井正親(さかいまさちか/酒井政家)が城主を務めた西尾城(西尾城の南西5kmに本證寺)などを訪れましょう

本證寺城

本證寺城

愛知県安城市野寺町、野寺御本坊とも呼ばれる真宗大谷派の寺が、本證寺(ほんしょうじ)。重の堀(内堀・外堀)や土塁が巡る「城郭寺院」で、三河一向一揆(みかわいっこういっき)の拠点となったことから本證寺城とも称されています。本證寺境内として国の史

西尾市歴史公園(西尾城)

西尾城の一部を復元した歴史公園。西尾城の前身は、承久の乱(1221年)の戦功によって三河国守護となった足利義氏(あしかがよしうじ)が築城した西条城。足利氏は吉良氏(きらし)と改め、吉良荘を統治。江戸時代に家康の命で酒井重忠が西尾城築城。その

三方ヶ原の戦い|静岡県

時代:元亀3年12月22日(1573年1月25日)
場所:遠州国(静岡県浜松市中央区)
内容:天竜川の扇状地が隆起した台地の三方ヶ原で、武田信玄と徳川家康が激突
信玄は相模の今川氏と甲相同盟を復活させ、駿河に進行、信玄と織田信長の同盟関係もあって、信長の家康への援軍は限定的となり、窮地に追い込まれます
信玄は浅井氏・朝倉氏に織田信長への牽制を要請し、西上作戦を開始し、信玄率いる2万の大軍(加えて北条氏の援軍2000人)は、青崩峠(信濃と遠州の国境/現・長野県飯田市と浜松市の境、旧塩の道)から遠州へと進軍。
別働隊の山県昌景軍は信濃から三河へ侵攻し、家康を挟み撃ちにする絶体絶命の大ピンチに。
浜松城での籠城戦をする予定を家康は三方ヶ原に出陣して武田軍を迎撃、死傷者2000人という大敗北を喫し、家康は馬上で脱糞するという悲惨な姿で、浜松城に逃げ帰っています
大敗北を喫した家康は、一矢を報いるため犀ヶ崖(さいががけ)で奇襲をかけています
現場検証するなら:合戦の場所は定かではありませんが三方ヶ原古戦場(三方ヶ原古戦場碑)、犀ヶ崖古戦場、犀ヶ崖資料館、浜松城

三方ヶ原古戦場(三方ヶ原古戦場碑)

三方ヶ原(みかたがはら)は、浜松にある台地。上洛を目ざす武田信玄軍2万7000と阻止しようとする徳川家康軍1万1000(うち信長軍3000)が浜松にある三方ヶ原台地で激突したのが1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦い。徳川家康が命からがら浜松

犀ヶ崖古戦場

浜松城の北1kmの地にある渓谷城の地形が犀ヶ崖(さいががけ)。三方原台地が裂けて陥没してできた全長2km、深さ9m、幅50mの断崖の谷です。三方原の戦いで大敗北を喫し、忠臣が身代わりとなって辛くも浜松城に逃げ帰った家康が、一矢報いるために夜

犀ヶ崖資料館

三方ヶ原の合戦で大敗した徳川軍が、浜松城に逃げ帰ったその夜、一矢報いようと武田軍に夜襲をかけたのが犀ヶ崖の戦い。犀ヶ崖資料館はもともと三方ヶ原合戦での徳川軍2000人、武田軍200人という戦死者を祀った宗円堂が前身。三方ヶ原の戦いとその戦没

浜松城

1570(元亀元)年、武田信玄の西侵に備えるため、徳川家康は本拠地を三河国岡崎城(現・愛知県岡崎市)から遠江国浜松荘へ移します。さらに当時の地名、曳馬という名が「馬を引く」(敗北)に通じることから浜松荘(荘園の名)に因んで浜松と改めています

家康の『しかみ像』に新説が! 家康が描かせたはウソだった!

徳川美術館(名古屋市)が所蔵し、レプリカが浜松城天守閣に展示される『徳川家康三方ヶ原戦役画像』。通称『しかみ像』が今ちょっとした話題に。元亀3年(1572年)12月、浜松市街東部の台地、三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康との合戦で、家康は

伊賀越え|大阪府・京都府・滋賀県・三重県

時代:天正10年6月2日(1582年6月21日)直後
場所:伊賀国柘植(三重県伊賀市)ほか
内容:本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた際、家康は堺(大阪府堺市)の妙国寺に滞在していました
京への上洛途中で、京の豪商・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう=徳川家の呉服御用)に信長死去の報を受けた家康は光秀の追討を避けるため、宇治田原城(京都府宇治田原町)から信楽へ入り、甲賀武士五十三家のひとり・多羅尾光俊の屋敷で1泊
近江国甲賀(滋賀県甲賀市)などを抜け、桜峠(三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の境)を越えて伊賀に入り、柘植から加太越(かぶとごえ/伊賀市・亀山市)で伊勢国に入り、伊勢国長太(なご/鈴鹿市)で船に乗り、伊勢湾、三河湾を航行、三河国大浜(愛知県碧南市)で上陸、岡崎城に帰還しています
酒井忠次など徳川四天王など重鎮が揃っていたため、明智勢、落ち武者狩りなどに襲われていたら大きく歴史は変わっていたでしょう
現場検証するなら:「神君伊賀越え」の起点といわれる堺市の妙国寺、伊賀衆(伊賀忍者)の活躍を今に伝える甲賀流忍術屋敷など
実際の退却ルートは定かでない部分もあります

妙国寺

妙国寺

大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山が妙国寺(廣普山妙國寺)。永禄5年(1562年)、摂津・河内・和泉3国を領有した三好実休(みよしじっきゅう)が京・頂妙寺の日晄(にっこう)に帰依、東西3丁・南北5丁の境内地と蘇鉄(そてつ)の木を寄進したことに

甲賀流忍術屋敷

甲賀流忍術屋敷

近江国(現在の滋賀県)甲賀(こうか)に伝わる、甲賀流忍術(こうかりゅうにんじゅつ)。甲賀武士五十三家と呼ばれた甲賀忍者の家系のうち、とくに功績のあった家は甲賀武士二十一家と呼ばれましたが、その筆頭格だったのが甲賀流忍術屋敷(望月家)の当主、

【その時、歴史は動いた!】家康の三大危機を現場検証する
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岡崎城(愛知県岡崎市)に生まれ、幼少期には人質生活を送り、戦乱の世を生き抜き、ついに江戸に徳川幕府を開いた徳川家康。大河ドラマ『どうする家康』のタイトルどおり、波乱万丈、危機一髪が連続する人生ですが、ゆかりの城、転機となった城11城を、年代

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徳川幕府の終焉の時代と、広く世の中が認識した幕末の大事件が『桜田門外の変』。江戸城西の丸入口、外桜田門で、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩からの脱藩者らが、時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を殺害するという事件が起こります。

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