古代朝鮮・百済(くだら、ペクチェ)第25代王が、武寧王(ぶねいおう、ムリョンワン/在位501~523年)。この武寧王、『日本書紀』に「筑紫の各羅嶋(かくらしま)に立ち寄り出産」と記されています。この各羅嶋は、玄界灘の離島・加唐島(かからしま)に比定され、現在の佐賀県唐津市で生まれた可能性が大なのです。
韓国でも武寧王・各羅嶋生誕説は定説化

当時の朝鮮半島には、朝鮮半島北部から満洲地方にかけて支配する高句麗(こうくり、コグリョ)、朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ、シルラ)、そして朝鮮半島西部から南西部に百済があり、三国時代と称されています。
1971年、韓国・公州市の宋山里古墳群で武寧王陵が発見され、墓碑に斯麻王(しまおう)の名と62歳で没したことが記され、『日本書紀』に記される嶋君の名前、生年と一致、さらに棺に日本特産の木材である高野槙(こうやまき)が使われていることから、これまでは、あくまで伝承の域を出なかった佐賀出身説が、真実味を帯びてきたのです。
実は日本だけでなく、韓国の学会でもこの武寧王・各羅嶋生誕説は定説化しつつあり、日韓友好の橋渡しともなっているのです。
加唐島での武寧王生誕説話は、『日本書紀』雄略天皇5年の条に記載されています。
『日本書紀』自体は720年成立なのでかなり後世の史書ですが、雄略天皇5年は西暦で461年となり、武寧王の誕生年と一致するのです。
蓋鹵王(がいろおう=『日本書紀』には加須利君・かすりのきみ)は弟の昆支(こんき)、古代の倭国との友好関係からヤマト王権に派遣(『日本書紀』には人質として日本に派遣と記載)。
その際に蓋鹵王は身ごもって臨月の夫人を弟の昆支に与え(扶余族にそうした兄弟間に夫人の贈与があったとされています)、夫人が各羅嶋で出産したため、王子(父は蓋鹵王)を百済に戻したというのが、史実として浮かび上がるのです。
古代の末羅国があった唐津市の松浦半島。
九州本土に上陸する直前の休泊地が各羅嶋(加唐島)で、そこで出産したということになるのです。
単に生まれただけではあるものの、古代の百済の王族と倭国の王族にはこうした密接な関係性があったことがわかり、想像以上に国際交流があったことが推測できるのです。
昆支の日本におけるその後の歴史は定かでありませんが、もし国内で没しているとすれば、高井田山古墳(大阪府柏原市)が有力な墳墓候補ということになります。


| 古代朝鮮の百済国・武寧王は、佐賀県生まれ!? | |
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