立石寺・大仏殿
立石寺の大仏殿は、奥の院の隣に位置し、像の高さ5mの金色の阿弥陀如来像が安置されています。毎日、卒塔婆(そとば)供養が行なわれ、彼岸の中日の施餓鬼法要(せがきほうよう)には、宗派を越えた参拝者で賑わいます。
立石寺の大仏殿は、奥の院の隣に位置し、像の高さ5mの金色の阿弥陀如来像が安置されています。毎日、卒塔婆(そとば)供養が行なわれ、彼岸の中日の施餓鬼法要(せがきほうよう)には、宗派を越えた参拝者で賑わいます。
山寺と通称される立石寺(りっしゃくじ)の三重小塔は、山上の奥の院下、華蔵院(けぞういん)脇にある岩窟の鞘堂に納められています。十穀静允(じっこくじょういん)作と伝えられ、静雲が寄進したもの。建立は永正16年(1519年)…
山形県山形市山寺、山寺と通称される立石寺(りっしゃくじ)山内の自然に沿ってつくられた参道は、古来からの修行者の道で、立石寺開山の租といわれる(あくまで寺伝ですが)、円仁(えんにん=慈覚大師)あるいは開祖の安慧(あんね)が…
羽黒山参道、神橋から徒歩5分、国宝・羽黒山五重塔のそばに立つ爺杉(じじすぎ)は、樹齢1000年といわれる秋田杉系の老杉。目通り幹囲8.2m、樹高は48mを越える羽黒山内一の巨木で、国の天然記念物に指定されています。以前は…
立石寺奥の院は、正式には如法堂といい、立石寺開山の租、円仁(慈覚大師)が唐(中国)で修行中に持ち歩いたといわれる、釈迦如来と多宝如来を本尊としています。石墨草筆(千年以上使っても擦り減らないという硬い石墨と草で作った筆)…
宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)の百丈岩と呼ばれる断崖絶壁の上に建つ赤い小さな納経堂は、衆徒が奥の院で行なう写経を納めるお堂。奥の院の如法堂で書写の法華経を奉納するために納経堂と通称されています。山内で最も古い建…
山寺と通称する、山形県山形市の名刹。立石寺(りっしゃくじ)を開祖したと伝えられる円仁(えんにん=慈覚大師)を祀る廟所が、開山堂。現存する建物は嘉永4年(1851年)の再建で、堂内には大師の木造の座像が安置されています。比…
山形県山形市、山寺と通称される立石寺(りっしゃくじ)山上にある五大堂は、大聖不動明王、東降三世明王、五大明王を祀って、立石寺を守護し、天下泰平を祈る道場。仁王門をくぐった先で左に分かれ、納経堂、開山堂方面へと歩を進めれば…
立石寺の仁王門は、奥の院までの中間点に位置し、根本中堂→宝物館→山門→せみ塚→仁王門と歩いて、登山口から徒歩25分ほど。嘉永元年(1848年)、立石寺65世・情田和尚によって建立された優美な門です。
山寺と通称される立石寺(山形県山形市)の根本中堂の西、仁王門の下に位置する弥陀洞(みだどう)は、長い年月の風雪に、新第三紀中新世の凝灰岩が削られ、阿弥陀如来の姿を造りだしたといわれるもの。1丈6尺(4.8m)の姿から「丈…
山形県山形市、山寺と通称される立石寺(りっしゃくじ)の百丈岩(ひゃくじょうがん)へと続く参道の途中には、せみ塚があります。せみ塚は、元禄2年5月27日(1689年7月13日)、『奥の細道』途中の芭蕉が立石寺で詠んだ「閑か…
山寺と通称される立石寺(りっしゃくじ)は、元禄2年5月27日(1689年7月13日)、『奥の細道』の途中の芭蕉と曽良が訪れたことで有名で、有名な「閑かさや岩にしみいる蝉の声」を詠んだことで知られています。境内には昭和47…
松尾芭蕉は『奥の細道』行脚の途中、元禄2年5月27日(1689年7月13日)に尾花沢から立石寺を訪れ、有名な「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んでいます。根本中堂の脇には、幕末の嘉永6年(1853年)、門人により建立…
羽黒山山麓にある随神門は、出羽三山神社神域の表玄関となる門。随神門をくぐれば、そこからが出羽三山の神域で、神域は月山を越え湯殿山まで広がっています。随神門は、神仏習合時代の元禄15年(1720年)、羽黒権現の仁王門として…
蜂子皇子(はちこのおうじ)は、推古天皇の御代に出羽三山を開いたと伝える開山の祖。蜂子神社(はちこじんじゃ)の祭神として祀られ、その墓は羽黒山頂のバス停から三神合祭殿への参道途中にあり、宮内庁の管理になっています。表参道石…
大宝寺氏12代当主(大宝寺城主)で、羽黒山の別当だった大宝寺政氏(だいほうじまさうじ=武藤政氏)が城下に巨大な一の鳥居を築いたのが始まり。その鳥居はなく、鶴岡市鳥居町という町名を残すのみ。その後山形県道47号鶴岡羽黒線を…
出羽三山の一つ湯殿山は、標高1500mで月山に連なり、湯殿山神社はその北側の渓流の畔に鎮座する神社。六十里越街道から湯殿山有料道路に入り、終点の駐車場から徒歩かシャトルバスを利用。御神体は湯がこんこんと湧き出す茶褐色の巨…
羽黒山(出羽神社)の五重塔は、平安時代に平将門(たいらのまさかど)が創建と伝えられ、文中元年(1372年)、庄内領主で羽黒山別当の大宝寺政氏(だいほうじまさうじ=武藤政氏)が大修復(再建)を行なったという記録が残されてい…