船町渡船場
大阪市に8ヶ所現存する公営渡船のうち、木津川と大正内港を結ぶ木津川運河(大正5年完成、幅80m)に運航されるのが船町渡船場。大正区鶴町1丁目と大正区船町1丁目を結ぶ短い渡船で、昭和20年代後半から30年代にかけは、船を連…
大阪市に8ヶ所現存する公営渡船のうち、木津川と大正内港を結ぶ木津川運河(大正5年完成、幅80m)に運航されるのが船町渡船場。大正区鶴町1丁目と大正区船町1丁目を結ぶ短い渡船で、昭和20年代後半から30年代にかけは、船を連…
水の都といわれる大阪市に8ヶ所ある公営渡船のうち、利用者がもっとも多い渡船が尻無川を渡る甚兵衛渡船場。利用者が多い理由は、周辺に高等学校があるから。甚兵衛によって設けられたという歴史ある渡船は、大正区泉尾7丁目(泉尾側)…
大阪市に現存する公営渡船8航路のうち、木津川に残る4ヶ所の渡船のひとつ。渡船のなかでは木津川では最上流に位置し、大正区千島1丁目(千島側桟橋)と西成区北津守3丁目(北津守側桟橋)を結んでいます。すぐ上流に木津川水門(防潮…
大阪市に8航路残る公営渡船のひとつ。天保10年(1839年)の『大坂湊口新田細見図』にワタシと記される江戸時代から運航された木津川の渡し船が落合下渡船場(おちあいしもとせんば)。大正区平尾1丁目(平尾側桟橋)と西成区津守…
「水の都・大阪」には今なお8航路が、大阪市建設局西部方面管理事務所により運航されています(木津川渡のみ大阪市港湾局の運航)。そのうち、もっとも人気の高い航路が天保山渡船で、明治40年に市営渡船となった歴史ある渡し船です。…
天保山公園と此花区桜島3丁目を結ぶ安治川にかかる岸壁間400mもの公営渡船が天保山渡船場。大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として明治38年に開設。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航しましたが昭和元…
天保山ハーバービレッジの海遊館横、海遊館西はとばから出航する帆船型観光船が大阪水上バス(京阪グループ)の運航する「サンタマリア」。「サンタマリア号」は、コロンブスがアメリカ大陸発見のときに使用した船の名前で、観光船はそれ…
かつて大坂と京を三十石船が行き交った淀川(現在の大川)を遊覧船で周遊。京阪グループの大阪水上バスが大川(旧淀川)を周遊する「大阪城・中之島めぐり」を運航。「アクアライナー」による「大阪城・中之島めぐり」は、大阪城港→天満…
大阪城公園や難波宮跡公園近くの法円坂一帯に広がる難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)の宮跡に建つ内容充実の大阪市立の博物館が大阪歴史博物館。飛鳥時代、博物館が建つ敷地には難波長柄豊碕宮という宮殿が建っていて、…
大阪府千早赤阪村にある楠木正成築城の城。後醍醐天皇の呼び掛けに応じた楠木正成が鎌倉幕府に対抗して築いた楠木七城のひとつで、城跡一帯には「日本の棚田百選」選定の下赤坂の棚田が広がっています。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主…
長谷の棚田と並び、大阪府下に2ヶ所しかない「日本の棚田百選」選定の棚田。千早赤阪村にある棚田で、楠木正成の戦いの地として知られる下赤阪城跡から眼下に見ることができます。稲穂が垂れる秋には黄金色に輝く棚田を目当てに多くのカ…
大阪府と兵庫県の境、大阪府能勢町にある長谷の棚田(ながたにのたなだ)は、「がま」と呼ぶ石組みで造られた独特の給排水設備を持つ歴史的な棚田です。もともと耕作地が少なかった土地だったので、石を組んで給排水設備を整えながら棚田…
南海電鉄浜寺公園駅は、明治30年10月1日の開業(開業当初は浜寺駅)ですが明治40年6月に東京駅を設計したことで知られる辰野金吾が所属の辰野・片岡建築事務所に依頼して新駅舎を建築。「近畿の駅百選」に選定、国の登録文化財に…
大阪府和泉市、槇尾山の中腹にある天台宗の古刹が施福寺(せふくじ)。山号は槇尾山(まきのおさん)で、槇尾寺(まきおでら)と通称されています。『槇尾山大縁起』によれば第29代・欽明天皇が病気治癒の勅願により行満上人によって開…
大阪府茨木市にある総持寺は、仁和2年(886年)、中納言・藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が創建したと伝えられる古刹で西国三十三所22番札所。一条、後一条、白河、鳥羽天皇の勅願寺として栄えましたが元亀2年(1571年)、織…
大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、大同3年(808年)、空海(弘法大師)が再興したと伝えられる河内長野市にある古刹が観心寺(かんしんじ)。後醍醐天皇から庇護を受け、建武新政直後の建武元年(133…
大阪府千早赤阪村にある楠木正成生誕の地という伝承が残る地。国史赤阪城跡(下赤坂城跡)から北に500m、国史楠木城跡(上赤坂城跡)から北に2kmという位置関係です。楠公誕生地一帯は、「道の駅ちはやあかさか」の敷地で、くすの…
7世紀後半、百済(くだら)の16代・辰斯王(4世紀末)の王子で日本に帰化した辰孫王の子孫、葛井連広成(ふじいのむらじひろなり=白猪史広成・しらいのふひとひろなり) が当時の天皇の仏教興降政策に協力して創建と伝えられる古刹…