松江城・中櫓
かつて松江城の二の丸には、東の櫓、太鼓櫓、中櫓、南櫓、御月見櫓という5つの櫓が並んでいました。平成13年に松江藩大工頭・竹内右兵衛書つけ(松江城廓の実測記録)などをもとに復元された櫓のひとつが御貝足蔵と呼ばれた中櫓です。
かつて松江城の二の丸には、東の櫓、太鼓櫓、中櫓、南櫓、御月見櫓という5つの櫓が並んでいました。平成13年に松江藩大工頭・竹内右兵衛書つけ(松江城廓の実測記録)などをもとに復元された櫓のひとつが御貝足蔵と呼ばれた中櫓です。
島根県松江市、松江城の大手に面した二の丸の東側に平成13年に2層の南櫓、平櫓の中櫓、太鼓櫓が125年ぶりに復元(明治8年に取り壊されていました)。御廊下橋と呼ばれた千鳥橋あたりから眺めると、二の丸の高石垣、内堀、そして櫓…
江戸時代から明治中期にかけて日本最大の古式捕鯨(西海捕鯨)の鯨組・益冨組があり、同時に潜伏キリシタンの島でもあった生月島 (いきつきしま=現・長崎県平戸市)の歴史や民俗、産業などを紹介するミュージアムが生月大橋公園内に建…
日本近海のクジラは、日本海側を北上し、アラスカ方面で出産後、日本海を南下しますが、それを待ち構えたのが九州諸藩の鯨組といわれる捕鯨組織です。その最大の組織が現在の長崎県平戸市、生月島にあった益冨鯨組で、世界最大のマニュフ…
平戸島(平戸市)と生月島(いきつきじま・平戸市生月町)を結ぶ、生月大橋。全長960mは、三径間連続トラス橋としては架橋当時世界一の長さを誇りました。生月大橋の生月島側たもとの長崎県道42号(平戸生月線)沿い、生月大橋公園…
長崎県平戸市、江戸時代初期にオランダ、イギリスの商館が建ち、西欧への玄関口となった平戸港、そして平戸の中心街を眼下にする絶景の公園が崎方公園。オランダ商館横のオランダ塀のある坂道を上っても、この崎方公園に到達します。園内…
長崎県平戸市の平戸島と生月島を結び、辰ノ瀬戸を跨ぐトラス橋が生月大橋(いきつきおおはし)。平成3年7月31日に生月大橋有料道路の一部として開通し、生月島が九州本土と道路で結ばれました。平成22年4月1日に無料化されていま…
空海が遣唐留学生として船出したのは、延暦23年(804年)7月6日、肥前国松浦郡田浦(現・平戸市大久保町田の浦)から。これが空海の記録に残る唯一の入唐となります。空海唐へ船出の地である田の浦の丘に、石像としては日本一の規…
長崎県平戸市、平戸島から長崎県道42号(平戸生月線)で、生月大橋を渡って生月島(いきつきしま)に渡ると、すぐ左手に道の駅生月大橋があります。この脇から、生月島の西海岸を走る絶景のドライブルートが生月農免農道で、東シナ海に…
長崎県平戸市、復元された平戸オランダ商館と、江戸時代にオランダ商館の目隠し、防火を目的に築かれたオランダ塀の間にあるのがオランダ井戸。大小ふたつの石組みの井戸で、オランダ商館の調理などに用いた生活用水だったと伝えられてい…
三浦按針(みうらあんじん)、本名ウィリアム・アダムス(William Adams)は、イングランド人航海士・水先案内人。元和2年(1616年)の徳川家康没後に、平戸(現・長崎県平戸市)のイギリス東インド会社、平戸イギリス…
空海が唐から帰国後、最初に護摩を焚いたと伝えられる地で、「西の高野山」とも呼ばれる九州の大師信仰の中心地が長崎県平戸市の最教寺。慶長12年(1607年)、第26代平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)がそれまで建っていた曹…
長崎県平戸市にある、鎖国時代の日蘭貿易の遺構が、平戸オランダ商館横のオランダ塀。元和4年(1618年)、付近の民家50戸を取り払った大規模な商館の増築工事にともない誕生したのがオランダ塀。商館の目隠しと、火事などの延焼か…
長崎県平戸市、平戸島(平戸市街)と本土側の田平(たびら)地区を結ぶ平戸瀬戸に架かる全長665mの吊り橋が平戸大橋。国道383号の一部で、かつては有料道路だった橋です(平戸大橋有料道路/平成22年4月1日無料化)。平戸大橋…
長崎県平戸市、瑞雲寺前の坂で、坂の上を見上げると、石畳と白壁、そして寺院に重なる平戸ザビエル記念教会の尖塔。上方に正宗寺、手前に光明寺、その下に端雲寺、3つの寺院と教会の尖塔という組み合わせは観光ポスターにもよく使われる…
長崎県平戸市、平戸島から生月大橋で渡った生月島(いきつきしま)の絶景の海岸。断崖が連続する生月島西岸の海岸線のなかでも、とびきり印象的な断崖が、塩俵の断崖。高さ20m、南北500mもの玄武岩の柱状節理の断崖が連なっていま…
佐賀県平戸市、平戸島から生月大橋で渡った生月島(いきつきしま)の最北端に突き出した大婆鼻(おおばえ)。大バエ断崖といわれる90mほどの断崖が連なり、晴れた日には壱岐、対馬を望む絶景の地。先端には白亜の大バエ灯台(大婆鼻灯…
長崎県平戸市、復元された平戸オランダ商館前の海岸は、東インド会社の帆船の寄港を前提に、江戸時代初期の元和2年(1616年)、元和4年(1618年)、寛永16年(1639年)と3回にわたって港湾整備、護岸工事がされた埠頭。…