上野恩賜公園
総面積は53haにわたる広大な上野恩賜公園。江戸時代までは徳川家の菩提寺、東叡山寛永寺の境内で、多くの堂塔、そして塔頭が建ち並んでいた境内でした。不忍池に弁天堂や、上野動物園の中に五重塔があるのもそのため。明治6年に日本…
総面積は53haにわたる広大な上野恩賜公園。江戸時代までは徳川家の菩提寺、東叡山寛永寺の境内で、多くの堂塔、そして塔頭が建ち並んでいた境内でした。不忍池に弁天堂や、上野動物園の中に五重塔があるのもそのため。明治6年に日本…
昭和5年に運輸省航海練習所の元練習船として進水し、数々の遠洋航海に出た日本丸。昭和59年に練習船としての役目を終え、横浜に永久的に錨を下ろしました。その帆船日本丸が係留保存されるのが横浜みなとみらい21地区にある日本丸メ…
長崎から18.5km、野母崎近くの海上にある周囲1.2kmの島が、軍艦島。海上から眺める姿が戦艦「土佐」に似ていたことから、軍艦島の名の由来ですが、正式名は端島(はしま)。もともとは水成岩の瀬だったのですが、三菱が買い取…
和歌山市加太沖、紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島。瀬戸内海国立公園に指定される沖ノ島の西端、淡路島との間にある友ヶ島水道にある灯台で、慶応3年(1867年)4月、兵庫開港に伴う外国船の安全航行を確保するため、幕府がイギリスとの間で…
和歌山市紀三井寺の熊野街道沿い、名草山の中腹に位置する救世観音宗総本山の紀三井寺。寺の正式名は紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)。宝亀元年(770年)、唐の僧・為光が開山。紀三井寺という名前は、…
越前町の越前海岸の高台、梨子ヶ平(なしがだいら)地区の世帯(農家数15戸)は、そのすべてが水仙栽培農家で、周囲の傾斜地にはいたるところに水仙畑が広がっています。しかも千枚田のような景観なので、梨子ヶ平千枚田水仙園と呼ばれ…
洲本城は三熊山の山頂にある模擬天守の建つ上の城が有名ですが、市街地にあるのが下の城。上の城と一体として築城された城ですが、現存する石垣と水堀は大坂夏の陣の後、淡路島が徳島藩・蜂須賀氏の所領となって以降、淡路支配の拠点とし…
洲本城は、洲本市街を北に見下ろす標高125mの三熊山の山頂に築かれた中世の城。室町時代の1526(大永6)年に三好氏の重臣・安宅治興によって築かれた東西800m、南北600mに及ぶ西日本最大規模の山城。秀吉の淡路攻めで落…
関門海峡に面した小倉は九州、瀬戸内の入口に位置する交通の要衝。戦国時代の末に尾張国出身の毛利勝信(もうりかつのぶ=森勝信)が九州平定と肥後国人一揆鎮圧の功労で秀吉から豊前国小倉領を拝して築城したのが小倉城始まり。江戸時代…
入り組んだリアス式の海岸線に天然の良港が多い由良湾(和歌山県由良町)。そんな由良で真っ白な石灰岩の露頭に、周囲をすっぽりと覆い尽くされた摩訶不思議な景観が広がるのが、白崎海岸(白崎海洋公園)。古くは『万葉集』にも歌われた…
レインボーブリッジの足元に広がる台場公園。お台場エリアにある東京都建設局が管理する公園ですが、公園内にある第三台場は、江戸時代に外国船を警備するために作られた海上砲台の跡でいわばお台場のルーツ。1854(安政元)年に竣工…
京都を流れる桂川にかかる橋で嵐山のシンボル的存在。左岸と中州である中ノ島公園とを結んでいます。承和年間(834年〜848年)に僧・道昌が架橋したのが最初で、鎌倉時代に亀山上皇が月が傾いていくのを眺めて「くまなき月の渡るに…
京都、東山のふもと、熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)から慈照寺(銀閣寺)に至る琵琶湖疏水(びわこそすい)沿いの約1.8kmの小道が哲学の道。哲学者・西田幾多郎が散策し、思索にふけったことからその名が付き、「日…
1866(慶応2)年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと結んだ改税条約(江戸条約)によって建設を約束した8ヶ所の条約灯台のひとつで、もっとも早く完成、点灯した洋式灯台が県立観音崎公園の高台に建つ観音埼灯台。現在の灯…
京、方広寺に鋳造された鐘に刻まれた銘文(方広寺鐘銘事件)から発展した豊臣勢力に対する厳しい処置。その後、大坂夏の陣が起こり、大坂城の堀が埋め立てられ、ついに慶長20年5月8日(1615年6月4日)、大坂夏の陣で、豊臣秀頼…
明治のお雇い外国人・ブラントンの設計で明治12年に点灯した大瀬埼灯台(現在の灯台は昭和46年の改築)は、「日本の灯台50選」、映画『悪人』のロケ地。美しい夕景は「日本の夕陽100選」にもなっています。640年頃の唐書『挺…
徳川家康が京都の守護と上洛時の宿泊場所として1603(慶長8)年に築造し、3代将軍・徳川家光が伏見城の遺構を移すなどして1626(寛永3)年に完成したのが二条城(元離宮二条城)。1867(慶応3)年に15代将軍・慶喜が大…
赤岩は、群馬県中之条町の山間にある養蚕集落。明治以前から養蚕が行なわれ、明治初期には近代養蚕技術の移入とともに前橋に繭が出荷され、その後は養蚕集落に変化しました。現在でも頑丈な養蚕農家の建物が現存し、一帯63haは、群馬…