現代を見つめる西郷隆盛像(西郷公園)
昭和52年、西郷没後100年顕彰事業として関西在住の鹿児島県出身者らが京都市の京都霊山護国神社に、新しい西郷像を建立する計画を立案。像は完成しましたが発注者の死去により計画が頓挫し、像は高岡市の倉庫に眠ることに。その像が…
昭和52年、西郷没後100年顕彰事業として関西在住の鹿児島県出身者らが京都市の京都霊山護国神社に、新しい西郷像を建立する計画を立案。像は完成しましたが発注者の死去により計画が頓挫し、像は高岡市の倉庫に眠ることに。その像が…
昭和12年に西郷隆盛没後50年祭記念事業として城山山麓(鹿児島市立美術館前)に立てられた西郷隆盛銅像。上野公園の西郷像(明治30年・高村光雲作)が着流し姿なのに対して、こちらは陸軍特別大演習(明治6年)のときの凛々しい軍…
只見川沿いに走るJR只見線は、SLが客車や貨車を牽引した時代から鉄道ファンに人気のローカル線で、車窓風景もなかなかの絶景ですが、「乗り鉄」だけでなく、「撮り鉄」にも注目のスポットが数多い線になっています。水をたたえる只見…
JR只見線、そして只見川と並走する国道252号(沼田街道沿い)、奥会津・金山町にある道の駅が「道の駅奥会津かねやま」。JR只見線会津中川から徒歩3分と、地域の観光拠点ともなっている道の駅です。地場産品・農産物販売所と金山…
奥会津、金山町は、日本有数の豪雪地帯(特別豪雪地帯の指定を受けています)。雪深い暮らしを先祖は知恵と巧みな技で克服してきましたが、そんな暮らしの歴史を集大成したのが旧玉梨小学校民具資料館。昭和52年に廃校となった玉梨小学…
ハーベスは、埼玉県さいたま市浦和区に本社を置く自動車、電気・電子機器・光学機器などに使われる潤滑剤を製造するメーカーですが、平成16年に天然水事業部新設し「奥会津金山天然炭酸の水」の製造販売を開始。福島県金山町大塩地区の…
一帯は井戸などにも炭酸が混ざるという、「炭酸地帯」。明治初年にはその効能から薬泉と喧伝(けんでん)され、県外からも人がやって来るほどとなりました。炭酸水の井戸は、今もこんこんと湧き出すのが大塩温泉炭酸水炭酸場で、平成27…
三方を海に囲まれた千葉県、銚子半島の東端・犬吠埼(いぬぼうさき)にある、高さ31.15mの西洋式灯台が犬吠埼灯台。「灯台の父」と呼ばれるブラントンの設計で明治7年11月15日の初点灯以来、太平洋を行き交う船舶の航海の安全…
現在の京都御苑・仙洞御所の東北部一帯は平安時代の摂政・太政大臣だった藤原道長(ふじわらのみちなが)の邸宅跡が土御門第跡(土御門殿跡)。道長が「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」で知られる有名な「…
総面積は53haにわたる広大な上野恩賜公園。江戸時代までは徳川家の菩提寺、東叡山寛永寺の境内で、多くの堂塔、そして塔頭が建ち並んでいた境内でした。不忍池に弁天堂や、上野動物園の中に五重塔があるのもそのため。明治6年に日本…
成田山新勝寺の本堂から徒歩5分ほどの裏山に広がる新勝寺の大庭園が成田山公園。約16万5000平方メートルにもおよぶ敷地には、放生(ほうじょう=捕らえた魚や鳥を放す)の場を表わす龍智、竜樹、文殊の3つの池が点在、池畔には浮…
高幡山金剛寺(高幡不動尊)、雨降山大山寺(大山不動尊)と並び、関東三大不動に数えられるのが成田山新勝寺。真言宗智山派の大本山で、開山は天慶3年(940年)。新皇を名乗り反乱軍を起こした平将門(たいらのまさかど)の乱を平定…
大山ケーブルの中間駅「大山寺駅」にある大山不動尊(雨降山大山寺)は、成田山新勝寺、高幡不動尊金剛寺と並んで関東三大不動のひとつに数えられる真言宗大覚寺派の大本山。天平勝宝7年(755年)開山の古刹で、神仏習合時代から真言…
大山詣での御師(おし)の町並みが残る大山ケーブル駅(山麓駅)と中間駅の大山寺駅を経て阿夫利神社駅(あふりじんじゃえき=山上駅)を結ぶ大山観光電鉄の運行するケーブルが大山ケーブルカー。大山ケーブルバス停からみやげ屋や名物の…
真言宗智山派別格本山、成田山新勝寺、雨降山大山寺(大山不動尊)と並び関東三大不動のひとつで、正式名は高幡山明王院金剛寺。一説には、奈良時代、僧・行基による開基とも伝わりますが、寺伝では清和天皇の勅願により平安時代初期、円…
標高200mの武山の山頂の一角にある武山不動。浄土宗の寺で、正式名称は龍塚山(りゅうちょうざん)不動院持経寺。江戸時代には浦賀水道を通る船の目印にもなり、地元の漁師はこの山がどこに見えるかで漁場の位置を確認したことから「…
兵庫県宝塚市にある清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)は、寛平8年(896年)、宇多天皇の勅願によって建てられたとされる真言三宝宗の大本山。開山当初は現在の北東の山腹にありましたが、数々の兵乱で焼け落ち、現在地に再…
日米修好通商条約の批准書交換のために万延元年(1860年)、遣米使節がアメリカに派遣されましたが、その時随行した咸臨丸に乗船の町田房蔵が、再度渡米し、明治2年6月に横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で販売した「あいすくり…