垂井一里塚(浅野幸長陣跡)

垂井一里塚(浅野幸長陣跡)

徳川家康が駿府に隠居する前年の慶長9年(1604年)、息子の秀忠に命じて、江戸・日本橋を起点にした街道整備の一環として、1里ごとに築かせた一里塚。国の史跡に指定される一里塚は全国に14ヶ所ありますが、そのうちのひとつが岐阜県垂井町(たるいちょう)の垂井一里塚。江戸から数えて112里にあたる一里塚です。

関ヶ原の合戦ではこの重要な場所に浅野幸長が布陣

中山道には135ヶ所の一里塚がありましたが、国の史跡となって現存するのは3里目の志村一里塚(東京都板橋区)とこの垂井一里塚の2ヶ所のみ。
他にも現存するものはありますが、すべて県の文化財にとどまっています。

垂井一里塚も、往時は道路を隔てて南北に対になっていましたが、北側は失われ、南側のみが現存しています。
一里塚整備以前の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に火蓋が切られた関ヶ原の戦いでは、この地に東軍・浅野幸長(あさのよしなが=浅野長政の長男。江戸の溜池を築造)が岐阜城を攻略後に陣を構えています。

浅野幸長は、6500の兵を率いてこの地に布陣しましたが、これは南宮山の毛利秀元を牽制し、家康の退路を確保するという重要な役割を担っていました。
浅野幸長は、豊臣政権では五奉行のひとりでしたが石田三成と対立し東軍に与し、その戦功で紀伊国和歌山藩主となっています。

垂井一里塚(浅野幸長陣跡)
名称 垂井一里塚(浅野幸長陣跡)/たるいいちりづか(あさのよしながじんあと)
Tarui Ichirizuka(Tarui Milestone)
所在地 岐阜県不破郡垂井町
関連HP 垂井町観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR垂井駅から徒歩25分
ドライブで 名神高速道路関ヶ原ICから約5km
駐車場 垂井町営垂井駅南駐車場(30台/有料)、駐車場から徒歩25分
問い合わせ 垂井町観光案内所 TEL:0584-23-2020
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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