『忠臣蔵』の舞台を旅する (1)事件の概要を知ろう

赤穂浪士(あこうろうし)の吉良邸への討ち入りで知られる『忠臣蔵』。江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が大ヒットして、一躍有名になった仇討の話。舞台は江戸城松之大廊下に始まり、赤穂浪士の切腹で幕を閉じていますが、まずは事件の発端から、『忠臣蔵』設立の背景をおさらいしましょう。

事件の発端は!?

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を、江戸城松之大廊下で切りつけたことが事件の発端です。

高家というのは、徳川幕府における儀式や典礼を司る役職。
徳川家に縁の深い旗本が就く職で、とくに三河時代からの家臣である吉良家は、高家の中から選ばれた3人の「高家肝煎」という筆頭職を務めていました。

江戸城松之大廊下は、江戸城本丸御殿の中。
刀を抜くことは、当然、藩の取り潰しにもつながりますから、狂気の沙汰としか言いようがありません。
それでも播州赤穂5万3000石藩主・浅野内匠頭長矩は、、梶川与惣兵衛と立ち話をしていた高家肝煎・吉良上野介義央に「宿意あり」と言いながら斬りつけたのです。
この部分は、『徳川実紀』に「白木書院の廊下にて、高家上野介義央と立(たち)ながら物語せしに、館伴(かんばん)浅野内匠頭長矩義央が後より、宿意ありといひながら、少(ちい)さ刀もて切付たり。義央驚き振むく所、また眉間(みけん)を切る」と記されています。
宿意は、宿怨(しゅくえん)とも言い換えられるでしょうから、まさに「恨みがあるぞー!」ということ。
何らかの恨みがあった可能性は大なのですが・・・。

浅野内匠頭はなぜ刃傷沙汰を引き起こしたのか!?

(1)赤穂の塩が吉良の塩に販売競争で負けた逆恨み
愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市)生まれで、『人生劇場』で知られる小説家・尾崎士郎はこう分析します。
「製塩」がキーワードとする説は結構ありますが、江戸時代初期に三河湾ではすでに入浜式塩田で塩をつくり、信州などへも塩の道・飯田街道で塩を運んでいました。
吉良上野介の地元、現在の西尾市の出身ということで、地元のよく目という部分もあるかもしれません。
逆に、「赤穂の製塩技術を、吉良に教えなかったので、吉良が意地悪をした」という話は、マユツバ話で歴史的な裏付けに欠けています。

(2)接待費用を節約し叱責されたことを逆恨み
「江戸学」の祖とよばれる三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は、赤穂事件を詳細に分析し、「接待費用を節約し叱責されたこと」を根に持ったのではと推測しています。
事件の2日前に徳川綱吉による勅使の引見があり、前日に勅使を猿楽でもてなし、当日の3月14日には勅答の儀が行なわれる予定でした。
勅答の行われる直前に切りつけたわけですから、一連の儀式に対する不満が爆発と推測しています。

(3)吉良に賄賂を持っていかず恥をかかされた
徳川家康から10代将軍徳川家治(天明期、1786年)までの事象を日ごとに記述する『徳川実紀』の分析。
「先(まず)義央に意趣をただされしに、更に覚えなきよしを申(もうし)により、義央は乗物にのらせ、平川門より帰宅せしめ、長矩は田村右京太夫建顕にあづけられ、館伴をば戸田能登守忠眞にかへ命ぜらる」と、事件直後の吉良上野介への質問では、「身に覚えがない」と答えています。
実記編纂時の巷説が、「吉良に賄賂を持っていかず恥をかかされた」ですが、この説にはとくに裏付けはありません。
官位の高い高家より指導を受ける時は、謝礼をするのは当然の習慣ですから、賄賂というのは説得力に欠けます。

(4)吉良が浅野の室に横恋慕
『仮名手本忠臣蔵』では、こんな説をとっていますが、これは、上演時に徳川幕府に対する配慮もあり、反体制的な内容にすることができず、「痴情のもつれ」にという苦肉の策。もっとも史実と違うと考えていいでしょう。

(5)典型的な統合失調症で、吉良は通り魔殺人の被害者に過ぎない
浅野内匠頭は、「痞え」(つかえ)の持病がもっており、事件の3日前に薬を調合してもらっています。
史書から、浅野内匠頭は、いったん発作が生じると、顔面が蒼白で、こめかみに青筋が立ち、片方の顔面が痙攣したと記録されています。
現代の精神科医などの中には、「典型的な統合失調症」と考える人もいて、通り魔殺人的な被害者だったのではないかと類推しています。

そもそも『忠臣蔵』とは何なのか!?

『仮名手本忠臣蔵』

人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつが『仮名手本忠臣蔵』。
1748(寛延元)年8月、大坂竹本座で初演。
徳川幕府への遠慮もあり、時代は足利尊氏の世、つまりは室町時代という設定。
人気演目の曽我兄弟の仇討を意識して、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の仇討ちストーリーになっています。

その後の、小説、映画などは、この『仮名手本忠臣蔵』の大ヒットがベースとなっています。
つまり、吉良上野介=意地悪な老人という描き方です。
勧善懲悪的な発想で、赤穂浪士(あこうろうし)は、主君への仇討ちを果たす赤穂義士と言い換えられたのです。

ただし、「仇討ち」というのは、親が殺害された時に子が果たすように、目上の者という意味合いがあったので、江戸時代の「仇討ち」という範疇に、赤穂事件は入らないの一般的な考え方です。

明治以降は、日露戦争後、国家主義思潮の高揚にともない忠君愛国的な風潮のもとで、『忠臣蔵』がブームとなっています(大正デモクラシーの際には衰退)。
米軍の日本占領下では『忠臣蔵』は「反民主的な内容」ということで、上映、上演を禁じられていました。

東京オリンピックが開催された昭和39年のNHK大河ドラマが『赤穂浪士』。
大佛次郎(おさなぎじろう)の大作『赤穂浪士』が原作ですが、従来の『忠臣蔵』では「仇討ち」を果たす赤穂浪士を「義士」として捉えられていたのですが、大佛次郎の『赤穂浪士』では幕藩体制や時代風潮に抗う「浪士」として捉えている点が斬新でした。
NHKという公共放送の立場から、浅野寄り(赤穂寄り)では、吉良に申し訳ないという判断があったのかもしれません。

「困ったら義経・秀吉・内蔵助」という川柳のとおり、圧倒的な人気を博し、前年の大河ドラマ1作目の『花の生涯』の平均視聴率20.2パーセントに対して31.9パーセントと大幅にアップしています。

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