山梨県甲州市塩山にある恵林寺(えりんじ)は、武田信玄の菩提寺。三門に掲げられるのが、天正10年4月3日(1582年4月25日)、織田信長の焼き討ちで壮絶な火定(かじょう)を遂げた快川紹喜(かいせんじょうき)の遺偈(ゆいげ)「心頭滅却すれば火も自ら涼し」が掲げられていますが、その場所が悲劇の現場です。
快川紹喜禅師が、後世に残した遺偈(ゆいげ)
天正4年4月16日(1576年5月14日)、武田勝頼は、遺言通り3年間、父・武田信玄の死を伏した後、臨済宗の禅僧・快川紹喜のもと、恵林寺で信玄の盛大な葬儀を執り行なっています。
その6年後、天正10年3月11日(1582年4月3日)、武田軍に追い詰められ、天目山で自刃し、武田氏は滅亡(その後、武田の遺臣の多くは徳川家康の臣下となり、徳川幕府の安定に尽力しています)。
直後の4月3日(西暦4月25日)、織田信長の軍勢は恵林寺を取り囲み、三門の上に逃げ込んだ快川紹喜以下、120名ほどに対し、火を放ったのです。
この時、燃え盛る火の中で座禅を組み、落命する直前に快川紹喜が唱えたのが「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず) 滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)」だといわれています。
この句は元々、中国の後梁時代(6世紀)の詩人・杜筍鶴(とじゅんかく)の詩『夏日題悟空上人院』(『夏日、悟空上人の院に題す』)が初出で、中国・宋代(1125年、日本の平安時代)の仏教書(禅宗語録・全10巻)『碧巌録』(へきがんろく)第四十三則、「洞山無寒暑」(とうざんむかんじょ)という公案(禅問答)に黄龍の新(おうりょうのしん)和尚の言葉として掲載されています。
『碧巌録』は、「宗門第一の書」と呼ばれるもの。
つまりは、禅僧であれば皆知っていたであろうフレーズで、快川紹喜自身もそれ以前にもこの言葉を使っています(『天正玄公仏事法語』)。
かつては荘厳な三門が建っていたと推測できますが、現在の三門はその後の再建で、少し小ぶりに。
三門脇にはあまり目立ちませんが、「天正亡諸大和尚諸位禅師諸喝食各々霊位」と刻まれた供養塔も立っています。
ちなみに、「心頭を滅却すれば火も亦(また)涼し」は、初出の杜筍鶴の『夏日題悟空上人院』の言葉で、『碧巌録』、そして快川紹喜の遺偈は、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」で、少し異なっています。
一部の事典などでは混同も見られますが、快川紹喜は、「滅却心頭火自涼」となっています。
禅宗では、この部分の違いは重要ではなく、大切なのは「心頭を滅却する」こと、つまりは「善悪にすがることのない覚悟」を諭しているのです。
その時歴史は動いた! 格言・名言の誕生地(4)心頭を滅却すれば火も自ら涼し|快川紹喜 | |
所在地 | 山梨県甲州市塩山小屋敷2280 |
場所 | 恵林寺/えりんじ |
関連HP | 恵林寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR塩山駅から山梨交通バス西沢渓谷行き11分、恵林寺前下車、または、タクシーで7分 |
ドライブで | 中央自動車道勝沼ICから約12km |
駐車場 | 70台/無料 |
問い合わせ | 恵林寺 TEL:0553-33-3011 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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