岐阜県美濃市にある長良川の川湊(かわみなと)の遺構が、上有知湊(こうずちみなと)。船着場跡の石畳、住吉高燈籠(常夜灯)型の川湊灯台が残され、往時を偲ぶことができます。もともとは、小倉山城を築城した金森長近(かなもりながちか)が城下町の整備とともに開いた近世の港で、岐阜県史跡に指定されています。
住吉神社の献灯を兼ねた高さ9mの常夜灯が現存
飛騨高山藩主・金森長近は、関ヶ原の合戦の前哨戦、美濃郡上八幡城攻め(八幡城の合戦)で武勲をあげ、美濃赤坂(現・大垣市)の家康本陣に馳せ参じています。
その功績で、美濃国武儀郡上有知(現・岐阜県美濃市)と関(関市)1万8000石と河内国金田(現・大阪府堺市北区金岡町)3000石を加増されたことで、飛騨高山を養嗣子の金森可重に任せ、自身は上有知に小倉山城を築いて隠居したのです。
その際、現在、「うだつの上がる町並み」として知られる城下町(美濃市美濃町重要伝統的建造物群保存地区)を築き、長良川の上有知湊を開いています。
江戸時代に築かれた川湊灯台は、上有知湊の守護神である住吉神社の献灯を兼ねた高さ9mの常夜灯で、「日本最古の灯台」とも称される大阪・住吉神社の住吉高灯籠を真似たもの。
「奥の細道むすびの地」として有名な大垣市の水門川にある船町港(船町湊=現・船町公園)にも同様の住吉灯台が建っています(現存する住吉灯台は明治20年の再建)。
飛騨と美濃(郡上・上有知)の物資を岐阜へと運搬
金森長近は、領国である飛騨の林産物などの物資を武儀郡金山村(現・下呂市金山)から見坂峠を越え、上有知へ陸送し、上有知湊で川舟に積んで岐阜中河原、河口の桑名へ流送しようと考えたのです。
この上有知湊は開削は、美濃(郡上・上有知)・飛騨と長良川下流域、桑名・伊勢湾を結ぶ舟運の拠点として繁栄、江戸時代を通じて美濃和紙を中心とした商業でも発展したのです(原料である楮も集積)。
江戸時代には物資の運搬を担う番船40隻(舟株を所持する者が船主)を配し、上有知湊から上流部は20石積み、下流は30石積みの鵜飼形舟で、3人の舟乗りが操舵して下り、上りは舟を引いて遡上しました。
明治44年、美濃電気軌道上有知駅開業まで経済の大動脈として機能していましたが、鉄道開通後は、鉄道輸送に代わり、その使命を終えています。
江戸時代の大動脈、長良川の舟運と川湊
江戸時代の長良川では、郡上藩の長良川の材木流送・筏流し(いかだながし)も行なわれ、まさに経済の大動脈になっていました。
長良川の川湊は、舟運可能な下田(現・郡上市)、須原(美濃市)、立花(美濃市)、上有知(美濃市)、小瀬(関市)、芥見(岐阜市)、長良三郷(岐阜市)、岐阜中河原(岐阜市)、岐阜鏡島(加納藩の外湊/岐阜市)、墨俣(大垣市)などがありました。
岐阜中河原湊には尾張藩の長良川役所が置かれ(長良川水運の支配権は尾張藩が保有)、通行税、筏役を徴収していました。
ちなみに、上有知(長良川)、岐阜中河原(長良川)、大垣(揖斐川)、笠松(木曽川)が、「美濃国四大川湊」と称されています。
上有知湊(川湊灯台) | |
名称 | 上有知湊(川湊灯台)/こうずちみなと(かわみなととうだい) |
所在地 | 岐阜県美濃市港町1492 |
関連HP | 美濃市公式ホームページ |
電車・バスで | 長良川鉄道梅山駅から徒歩15分 |
ドライブで | 東海北陸自動車道美濃ICから約3km |
駐車場 | 小倉公園駐車場を利用 |
問い合わせ | 美濃市教育委員会人づくり文化課 TEL:0575-35-2711 |
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