織田信長が稲葉山城(現・岐阜城)を攻略、美濃、そして濃尾平野を手中に収め、「天下布武」をかかげたのが岐阜。井ノ口と呼ばれていた地名を岐阜と改めたのも信長で、稲葉山(金華山)の山麓に居館を築いています。現在、山頂部には鉄筋コンクリート造りの岐阜城が建ち、濃尾平野を一望するパノラマと夜景が自慢です。
織田信長が天下布武の拠点にした城が岐阜城

岐阜は、長良川が平野部に出てくる扇の要で、稲葉山城の陥落は、織田信長が濃尾平野全体を手中に収めたことになったのです。
信長は清州(愛知県清須市)から重臣たちの反対を押し切って小牧山(愛知県小牧市)に居城を移し、さらに岐阜(岐阜県岐阜市)へと北進したのです。
肥沃な濃尾平野を掌握したことで、他国に先駆けていち早く兵農分離を実施。
農村の次男、三男を徒士(かち)、足軽などに抱えて在地武士制から城下集住へと移行させました。
このことで田植えや稲刈りなどの繁忙期の合戦も将兵不足に悩まされることなく、さらに専門的な軍事教育を受けた将兵を育成することも可能となったのです。
さらに信長は城下町を整備し、「楽市楽座」を導入し商業を活性化させています。
こうした天下取りへの拠点となったのが岐阜で、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも見学したというのが山麓にあった居館(居館というものの、信長自体は山頂に暮らし、接待の空間として利用されました)です。
稲葉山の山頂には軍事施設を築きましたが、限られた人しか入ることのできない特別な空間とし、客人も自らが山を登って案内してもてなしたと伝えられています。
山頂からの眺めに客人は心を打たれ、京都の公家・山科言継は「剣難の風景、言語に説くべからず」との感想を残しています。
永禄10年(1567年)に岐阜を居城に定め、天正4年(1576年)に京に近い安土城(滋賀県近江八幡市)に移るまで、この岐阜城が拠点でした。

山頂の天守には信長とその家族が暮らした!

宣教師ルイス・フロイスの書簡から、岐阜城の山頂部分には、信長とその家族、そして人質などが暮らしていたことがわかっています。
地盤がチャートの堅い岩盤であるため、井戸を掘削することができず、飲み水を天水(雨水)に頼るので、籠城戦には不向きということもあって、どんな建物だったのかは謎に包まれています。
岐阜城が天守の起源という説もあり、4層4階あるいは4層5階の可能性もありますが、平屋だったという説もあって定かでありません。
岐阜人は金華山山頂の天守への思いは強く、明治43年には早くも木造・トタン葺き3層3階建ての天守を岐阜市保勝会が建設。
これが日本最初の観光用模擬天守ともいわれています(昭和18年2月17日、失火で焼失)。
現在の天守は戦後の復興天守で、昭和31年7月25日、鉄筋コンクリート建築3層4階建てで完成。
城戸久・名古屋工業大学名誉教授の設計ですが、岐阜城の天守を移築したという加納城御三階櫓の図面や古文書、そして現存天守の丸岡城などを参考にしていますが、あくまで推測の域を出ない「想像上の天守」ということに。
しかも実際に建てられた天守は、設計図とは異なっています。
岐阜城の天守は、あくまで想像上の天守で、史実を反映させた外観ではありません。
それでも夏には夜景を眺める展望台として、しかも通年、資料館としても機能しているので、訪れる価値は大です。
令和8年5月19日以降は耐震工事などで長期間閉鎖の予定なので、登城を計画するなら今のうちということに。
登山道では転落死亡事故も起こっているので、歩いて金華山を登る、あるいは下山する際には十分な注意が必要です。

| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(15)岐阜城|岐阜県 | |
| 名称 | 岐阜城/ぎふじょう |
| 所在地 | 岐阜県岐阜市金華山天守閣18 |
| 電車・バスで | JR岐阜駅・名鉄新岐阜駅から岐阜バスまたは、名鉄バス長良橋方面行きで15分、岐阜公園歴史博物館前下車、さらにロープウェイで約3分、山頂駅から徒歩3分 |
| ドライブで | 東海北陸自動車道岐阜各務原ICから約12km。または、一宮木曽川ICから約13.5kmで岐阜公園堤外駐車場 |
| 駐車場 | 岐阜公園堤外駐車場第1(143台)・第2(36台)/1時間まで無料、以降有料 |
| 問い合わせ | 岐阜城 TEL:058-263-4853/FAX:058-263-4853 |
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