箕輪城

榛名山東南麓に築かれた中世の平山城が、箕輪城(みのわじょう)。東西500m、南北1100m、総面積36haという広大な城で、「日本100名城」にも選定。相模・小田原城が本拠の北条氏康、甲斐・府中(甲府)の武田信玄、越後の上杉政虎が虎視眈々と狙う関東の要衝に位置する城で、城の西に榛名白川、南には榛名沼があって天然の要害となっていました。

日本100名城に選定の高崎の城跡

三の丸門跡と石垣
二の丸跡
築城は1512(永正9)年、長野業尚(ながのなりなお)と推測され、戦国時代の半ばに長野氏の居城となりました。
長野氏は上杉氏の後ろ盾を得て、現在の高崎周辺を治めていました。

1566(永禄9)年、甲斐(現・山梨県)の武田信玄に攻められ、上杉謙信の援軍も間に合わずに落城。
武田信玄の上野国(こうずけのくに)支配の拠点となりました。

武田氏滅亡後は織田信長の家臣で織田四天王の滝川一益(たきがわいちます)が入城。
本能寺の変の後には北条氏政・氏直の大軍が上野国に侵攻し、北条氏政の弟・北条氏邦が箕輪城に入城しています。

豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃で開城。

徳川家康の江戸入封にともなって井伊直虎に育てられた井伊直政(徳川四天王のひとり)の居城となり、近世的な城郭へと手直しされていますが高崎城築城(高崎藩立藩)で廃城となっています。

深い濠と曲輪の跡が現存

北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置した平山城で、国の史跡になっています。
御前曲輪(ごぜんくるわ)・本丸・二の丸・三の丸などの各曲輪(くるわ)は深濠で囲まれ、本丸の周囲には最大幅40m、深さ10mの濠が巡らされています。
現在残っている町割りや城跡のほとんどは、井伊直政の時代に造られたと推測されています。

平成10年度から始まった高崎市の発掘調査により門跡(もんあと)、石垣、石組の排水溝、土塁、濠、掘立柱建物が発見されています。
注目は、郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)の礎石で、平成27年度に関東で確認されている戦国時代の城門では最大という幅5.7m、高さ6.3mの櫓門(やぐらもん)が復元されています。

毎年10月最終日曜には『箕輪城まつり』が開催されています。

箕輪城
名称 箕輪城/みのわじょう
所在地 高崎市箕郷町西明屋・東明屋
関連HP 高崎市公式ホームページ
電車・バスで JR高崎線高崎駅からバスで35分
ドライブで 関越自動車道前橋ICから約11km
駐車場 史跡箕輪城跡駐車場(78台/無料)などを利用
問い合わせ 高崎市箕郷支所産業課 TEL:027-371-5111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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