邪馬台国&卑弥呼の謎に迫るカギ、 「青龍三年」銘の銅鏡とは!?

「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡

倭国に邪馬台国(やまたいこく)が栄えた弥生時代(3世紀)の環壕集落が、大阪府高槻市の安満遺跡(あまいせき)。その背後の丘陵に築かれた安満宮山古墳(あまみややまこふん)から出土した銅鏡のうち、「青龍三年」銘の銅鏡が、『魏志倭人伝』に記述のある魏から卑弥呼に贈られた銅鏡の一部ではないかと推測されています。

出土した銅鏡のうち3面は魏王が卑弥呼に贈った鏡!?

「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡
注目は「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡

現在、「青龍三年の丘」として整備される安満宮山古墳(一辺20mほどの長方形墳)から出土した銅鏡は、中国・魏代の「青龍三年」(235年)銘が入った方格規矩四神鏡や、三角縁「天・王・日・月・吉」獣文帯四神四獣鏡、「吾作」銘斜縁二神二獣鏡、「吾作」銘三角縁環状乳四神四獣鏡、「陳是作」銘平縁同向式神獣鏡の5面で、いずれも国の重要文化財。

このうちもっとも注目が集まるのが、「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡(ほうかくきくしじんきょう)。
『魏志倭人伝』と通称される中国の史書『三国志』中の『魏書』第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」(うがんせんびとういでん=烏丸、鮮卑、夫餘、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人の記録)・倭人条に、景初2年(238年)、倭国の女王・卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えたと記されています。

安満宮山古墳出土の方格規矩四神鏡は、この『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の女王・卑弥呼が魏から贈られたという「銅鏡百枚」の一部ではないかと推測されるのです。
この方格規矩四神鏡、安満宮山古墳では平成9年の出土ですが、平成4年に丹後半島の太田南5号墳(京都府京丹後市/大田南古墳群)から出土した方格規矩四神鏡とともに、国内で出土する銅鏡に記載された年号が最古となるもの(この2面は直径17.4cmと同型です)。

安満宮山古墳では銅鏡が5面(1号鏡〜5号鏡)出土していますが、方格規矩四神鏡(2号鏡)と、220年頃の製造と目される「吾作」銘三角縁環状乳四神四獣鏡(1号鏡)、「陳是作」銘平縁同向式神獣鏡(5号鏡)の3面は、魏王が卑弥呼に下賜した銅鏡100枚の一部ではないかと推測されています。

安満宮山古墳や、卑弥呼と同時代の環壕集落・安満遺跡は、古代の重要な交易ルートだった淀川沿いに位置するので(木津川を遡ると大和へと通じます)、仮に邪馬台国が奈良県桜井市など畿内にあったとしても、九州だったとしても、交易で連合する豪族にもたらされたと考えられるのです。
まさに「女王・卑弥呼の魏交易土産」という貴重な鏡なのです。

三角縁神獣鏡は中国本土からは出土していないこともあって、倭国の国内製造と考える研究者もいますが、逆に、「鏡好きの蛮族の朝貢に対する特製の下賜品」という意味合いもあると考えるのが定説になりつつあります。

近年、邪馬台国は畿内、とくに奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)の可能性が高まっていますが、大和盆地から淀川、瀬戸内海を経て大陸に達する邪馬台国時代のメインルートを考える上でも畿内説を支える重要な銅鏡といえるのです(それでも、卑弥呼のいた邪馬台国は大和にあったと断定するのはまだまだ早計です)。

「安満宮山古墳の被葬者自身が朝貢使節の一員」と考える研究者もいて、銅鏡と邪馬台国の研究はますます熱を帯びることが予想されます。

「陳是作」銘平縁同向式神獣鏡(5号鏡)
「陳是作」銘平縁同向式神獣鏡(5号鏡)
邪馬台国&卑弥呼の謎に迫るカギ、 「青龍三年」銘の銅鏡とは!?
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安満宮山古墳(青龍三年の丘)

安満宮山古墳(青龍三年の丘)

大阪府高槻市安満御所の町、安満山の中腹、標高125mの狭い尾根上にある、一辺20mほどの長方形墳が、安満宮山古墳(あまみややまこふん)。高槻市立公園墓地内にある古墳で、出土した「青龍三年」(235年)銘が入った青銅鏡から3世紀後半の築造とさ

 

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