明治32年、帝国陸軍が広島湾(呉港)への外国艦船の侵入を防ぐために、音戸の瀬戸に臨む標高216mの高烏台(たかがらすだい)に築いた28センチ榴弾砲6門を装備した砲台の跡が高烏砲台跡。現在は音戸の瀬戸公園の一部で、平清盛の日招き像が立っていますが、その近くに、砲台跡や兵舎跡が残されています。
日清戦争開戦で緊迫するアジア情勢を反映して築かれた要塞砲
明治16年、第二海軍区鎮守府の候補地として呉港が候補に上がり、明治19年7月、軍港設置とともに敵艦隊の艦砲射撃に備える陸上砲台は陸軍において構築することに決まり、築かれた砲台の一つが高烏砲台です。
明治27年9月13日、日清戦争の勃発で、広島城内に大日本帝国軍の最高統帥機関となる大本営が置かれ、明治天皇も広島に移ったことから(明治天皇は、明治28年5月30日までの227日間広島で指揮を執りました)、砲台構築も急務となり、明治29年と明治32年に砲台とその関連施設である兵舎、火薬庫を構築しています。
呉は海軍の軍港としても重要だったため、後に高烏砲台は陸軍から海軍に移管されています。
砲台や兵舎に使われている石は、南西側の現在の音戸の瀬戸公園敷地内から産出する花崗斑岩を使っています。
太平洋戦争では防空砲台に転用されましたが、明治時代の広島湾要塞として構築された要塞砲形式が残され、貴重な戦争遺跡となっています。
平清盛の日招き像は、実はこの砲台の一部に築かれています。
なお、旧高烏砲台火薬庫(国の登録有形文化財)は、入船山公園に移築され、入船山記念館の一部となっています。
高烏砲台跡は、日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成資産になっています。
当初は呉要塞という名称でしたが、明治36年に広島湾要塞に名称が変更され、大正15年8月1日に廃止されるまで、広島湾を防備する砲台群として機能していました。
ただし、大正15年の廃止と同時に呉軍港を中心とした呉要塞が新設され、広島湾の陸上方面での要塞地帯縮を意味するだけで、海上方面ではかえって軍備拡張という状況でした。
高烏砲台跡 | |
名称 | 高烏砲台跡/たかがらすほうだいあと |
所在地 | 広島県呉市警固屋8 |
関連HP | 呉市公式ホームページ |
ドライブで | 広島呉道路呉ICから約9km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 呉市観光振興課 TEL:0823-25-3309 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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