大久野島・発電所跡

大久野島・発電所跡

広島県竹原市、大久野島の第二桟橋近くにある、大久野島最大規模の戦争遺構が、発電所跡。大久野島は日露戦争時には芸予要塞の砲台群が置かれていましたが、昭和4年から化学兵器(毒ガス)が密かに開発された場所で、工場の稼働にあわせて建設されたのが発電所です。

毒ガスの製造を支えた電力を生んだ発電所の遺構

大久野島・発電所跡

重油を炊いてタービンを回して発電したディーゼル発電所で、昭和4年と推測される稼働当初は240V発電機3台、昭和8年には3300V発電機3台、さらに昭和9年には2台を増設し、計8基態勢で工場を支えたのです。
重油の入手難を想定して、昭和16年には海底ケーブルを敷設し、本土からの電力供給も受けています。
毒ガス製造には学徒動員を含め数千人が働いていましたが、命を落としたり、戦後も毒ガスの後遺症に悩まされるという負の遺産を背負ったのです。

終戦直前には女子動員学徒による風船爆弾の製造も行なわれています。
戦後はGHQによる武装解除が行なわれ、発電機も撤去。
朝鮮戦争時にはアメリカ軍が弾薬庫として使用しています。
建物は朽ち果てつつあり、倒壊の危険もあるため立入禁止になっています。

化学戦の実態は慎重に秘匿されたため、昭和59年に報道されるまでは知られることのない存在でしたが、その後の研究で、毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍化学研究所(登戸研究所など)、大量製造したのは大久野島、小倉陸軍造兵廠(現・福岡県北九州市小倉北区)製の砲弾・爆弾に充填は東京第二陸軍造兵廠曽根製造所(現・福岡県北九州市)、化学戦の運用、訓練には陸軍習志野学校(現・千葉県習志野市)という役割分担があったことも判明しています。
大久野島の工場で製造した毒ガス兵器が日中戦争でも使用され(西欧での使用はしないということになっていました)、合計2000回使用して、9万人以上が殺傷されたともいわれています(終戦後に資料が破棄されているため、詳細は不明です)。

大久野島・発電所跡
名称 大久野島・発電所跡/おおくのしま・はつでんしょあと
所在地 広島県竹原市忠海町大久野島
関連HP 竹原市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 大久野島第二桟橋から徒歩3分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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