間宮林蔵渡樺出港の地

宗谷岬から西(稚内市街方面)へ3kmほど走った第2清浜地区の海岸線に立つ石碑。1808(文化5)年4月13日、幕府から命を受けた間宮林蔵(まみやりんぞう=当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、宗谷から第1次樺太探検に出発。その渡樺地点には「間宮林蔵渡樺出港の地」碑が立っています。

間宮林蔵が樺太探検に旅立ったと推測される地

間宮林蔵の著『東韃紀行』(とうだつきこう)では「七月十三日本蝦夷地ソウヤを出航し、其日シラヌシ(注/樺太西海岸の南端に位置する村、明治時代の本斗郡好仁村南白主=現・ロシア連邦サハリン州シェブニノ)に至る」と記されているだけでその出港の地は定かでありませんが、間宮林蔵の墓石(間宮林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に立て、探検への覚悟のほどを示しました)が見つかったことや、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第2清浜地区と推測されているのです。

間宮林蔵は1808(文化5)旧暦7月13日、第2次樺太探検のため、アイヌの船に乗って単身で樺太に出発。
北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が島であることを確認しています。

この時の地図がシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が間宮海峡と命名されるきっかけとなったのです。
当時宗谷岬周辺には400人ほどのアイヌが住んでおり、その支援もあって樺太へと旅立っています。

間宮林蔵の樺太探検
常陸国筑波郡上平柳村(現・茨城県つくばみらい市)出身の徳川将軍家御庭番、探検家。近藤重蔵、平山行蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれています。
幕府の命で1799(寛政11)年、国後場所(国後島、択捉島、得撫島=ウルップ島)に派遣され、伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803年)、西蝦夷地(現・北海道)を測量して得撫島(ウルップ島)までの地図を作成。
1808(文化5)年、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索しています。
北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であることを推測し、「大日本国国境」の標柱を建て、1809(文化6)年旧暦6月、宗谷に帰着。
報告書を提出した林蔵は翌月、二度目の探索に出発し、北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が島であることを確認しています。
現在、宗谷岬に立っている間宮林蔵立像は、昭和43年、最北端の地碑ができたときに、渡樺の地から宗谷岬に移設したもの。
宗谷岬に建つ間宮林蔵立像
間宮林蔵渡樺出港の地
名称 間宮林蔵渡樺出港の地/まみやりんぞうとかばしゅっこうのち
所在地 北海道稚内市宗谷村清浜
関連HP 稚内市公式ホームページ
ドライブで 稚内空港から約20km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 稚内市観光交流課 TEL:0162-23-6161
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
間宮林蔵の立像

間宮林蔵の立像

2022年10月4日

 

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