北海道虻田郡豊浦町礼文華、日本一の秘境駅と呼ばれる室蘭本線・小幌駅(こぼろえき)から山道を歩き、急坂を下って海岸に降り立って到達する秘境にある洞窟観音が、岩屋観音。円空上人が彫ったとされる仏像が安置されたことで岩屋観音と呼ばれますが、縄文時代以降の遺跡、小幌洞窟遺跡としても知られています。
日本一の秘境駅から歩いて到達する海岸洞窟遺跡
300万年前の海底火山の噴火によって形成された海岸地形が、波などによって浸食され洞窟を形成。
縄文時代晩期からは生活空間、信仰の地としても利用され、江戸時代(アイヌ文化期)には円空も訪れ、仏像を彫っています。
円空が彫ったとされる仏像は、レプリカが置かれ、本物は有珠善光寺に保存されています。
小幌洞窟では、これまで3度の発掘調査が実施され、海が退行した縄文時代晩期の後半(今からおよそ2500年前)、続縄文期の前半期(2000年前/北海道では米作が行なわれないため、本州の弥生時代に該当)、擦文文化期(さつもんぶんかき=7世紀~13世紀、本州の暮らし方を取り入れつつも伝統的な囲炉裏を使うなど北海道独自の文化)、そしてアイヌ文化期(中世〜近世、本州の鎌倉時代〜江戸時代、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、北方の文化圏との交流で形成された文化)と断続的に人々の営みがあったことが判明しています。
土器や石器、骨角器(動物の骨を使った道具)、人骨などが出土しています。
火を焚いた跡があるのは、狩猟や漁労のための一時的な基地として機能したからだと考えられています。
木彫りの円空仏で有名な円空が訪れたのは、満足な道もない寛文6年(1666年)のことで、記録に残る最古の和人訪問者です。
山上を通る礼文華山道が開通するのは江戸時代後期なので、有珠善光寺参詣の帰途、アイヌの人の小舟でこの地に至ったのだと推測され、円空の行動力に脅かされます。
それが証拠に1体の仏像(現在は有珠善光寺保存)の背文に「うすおくのいん小島」(洞爺湖中島は、有珠善光寺の奥の院)に奉納されるべき観音像であること、初めて有珠山に登ったこと、作者である円空の署名と花押が刻まれています。
寛政3年(1791年)にはやはりアイヌの小舟で、紀行家で本草学者の菅江真澄(すがえますみ)が小幌洞窟を訪れ、円空仏5体を確認。
海岸に漁期に漁場があったことなども菅江真澄の記録『えぞのてぶり』で判明しています。
近世には好漁場として知られ、番屋も築かれましたが、船で生活物資を運び込み、漁期だけの生活に利用されたものでした。
その後、鉄道の開通と小幌駅の開設で、定住者も現れるようになりましたが、漁船の大型化、高速化により、定住の必要がなくなったため、再び北海道屈指の秘境に戻っているのです。
岩屋観音(小幌洞窟遺跡) | |
名称 | 岩屋観音(小幌洞窟遺跡)/いわやかんのん(こぼろどうくついせきあと) |
所在地 | 北海道虻田郡豊浦町礼文華 |
関連HP | 豊浦町公式ホームページ |
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