福島県白河市南部、旗宿(はだじゅく)に置かれた奥州三関(奥州三古関)のひとつが白河の関。古代、ヤマト王権の前線基地だったとも推測され、蝦夷(えみし)の南下を阻み物資の往来を取り締まったのが始まり。奈良時代から平安時代に機能し、律令制の衰退とともに機能を失いました。
奥羽三関に数えられる律令時代の関所
幕末までその場所は定かでなかったが、寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信は文献などを調査し、白河神社(以前は住吉神社=境の明神)の建つ場所が関所跡と断定しています。
平安時代初期、承和2年(835年)12月3日の太政官符(『類従三代格』)に「剗(せき)ヲ置キテ以来、今ニ四百余歳」という記述があり、当時、5世紀に関が築かれていたと認識されていたことがわかります。
平安時代から歌に詠まれ、能因(のういん)法師が『後拾遺集』で、「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(霞み立つ春に都を旅立ったのに、白河の関に着いてみるとはや秋風が吹く季節だった)と遠い陸奥(みちのく)を歌っています。
京の都からはまさに道の奥だったのですが、実際に能因は旅しておらず、あくまでも名前だけしか知らない想像の地でした。
律令制の衰退とともに関所の機能を失ってからも、都の文化人たちの憧れの地となり続け、歌枕(和歌の題材とされた日本の名所旧跡)となったのです。
元禄2年4月21日(1689年月8日)、松尾芭蕉も『奥の細道』の道中で、旗宿に達し、「西か東か 先早苗にも 風の音」と詠んでいます。
昭和34年から5年を費やして、関の森遺跡が白河の関なのかを確認することを目的として発掘調査が実施。
その結果、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、土坑、柵列などが確認され、竪穴住居跡を中心に8・9世紀の土師器や須恵器、あるいは鉄製品が出土し、国の史跡「白河関跡」に指定されています。
濠跡が残る関跡には、西行の句碑や樹齢800年といわれる従二位の杉などが点在。
関跡の小高い丘には白河神社も鎮座し、隣接して各種体験ができる白河関の森公園も整備されています。
ちなみに奥羽三関は太平洋側の勿来関(なこそのせき/福島県いわき市に比定されていますが定かでありません)、日本海側の鼠ヶ関(ねずがせき/山形県鶴岡市)と白河関。
東北以北を「河北」と呼ぶのは白河から北の意。
白河の関 | |
名称 | 白河の関/しらかわのせき |
所在地 | 福島県白河市旗宿関ノ森 |
関連HP | 白河観光物産協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR白河駅から福島交通バス白河の関行きで30分、終点下車、すぐ |
ドライブで | 東北自動車道白河ICから約16km |
駐車場 | 15台/無料 |
問い合わせ | 白河観光物産協会 TEL:0248-22-1147 |
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