別名「甘棠園」(かんとうえん)とも呼ばれる福井県敦賀市にある江戸時代前期の庭園で国の名勝に指定されるのが柴田氏庭園。江戸時代前期、敦賀の豪農(庄屋)だった柴田権右衛門が絵師・狩野探幽に地割りを任せ、探幽の死後14年が経た元禄元年(1688年)、小堀遠州が築いたと伝えられる築山回遊式林泉庭園です。
狩野探幽の設計と伝わる名園
参勤交代の際の若狭小浜藩主の休憩所にもなっていたのが柴田氏庭園。
庭園の地割り設計をした狩野探幽は、二条城や大徳寺などの障壁画を手がけた絵師で、その形式は江戸狩野様式として確立、継承されたもの。
「敦賀富士」とも呼ばれる野坂山を借景にしていますが、これは、野坂山山中に柴田氏の氏神が祀られているからとも推測できます。
園地に面して建つ数奇屋風書院は、文化2年(1805年)の再建。
鶴の間と松の間の間にある欄間に藩主・酒井家(若狭小浜藩は酒井忠勝以降、譜代・酒井家が藩主、支藩の敦賀藩も酒井家)の家紋(若狭剣片喰)が彫刻されていることから、殿様の御成の場とわかります。
また、鳥居形の窓は、柴田氏が野坂山の氏神を遥拝するためという珍しい設計になっています。
市街地化された現在では判然としませんが、周囲には貞享年間に掘られた環濠が巡らされ(現在は一辺が欠けてコの字型)、その南辺が借景庭園の園池となっているのです。
往時は湧水が池の水を湛えていましたが、現在では揚水ポンプによる給水が行なわれています。
屋敷林としてはクロマツと竹が植栽されていましたが、現在も竹林は健在です。
「甘棠園」(かんとうえん)という別名は中国の故事(『史記』卷三十四 燕召公世家)に由来。
西周建国の功臣・召公奭(しょうこうせき)は村々を巡行して裁判を行ないましたが、人民に迷惑をかけまいと小さな甘棠(かんとう=ズミ、ヤマナシ、ヤマモモの類)の木の下で野宿をしていました。
召公奭が亡くなっても、召公の仁徳と善政を敬い甘棠を大切にしたという故事が「甘棠之愛」。
この名園にヤマモモの老木があることを物語っています。
敦賀市の天然記念物となったヤマモモは樹齢約300年の老木。
ちなみに作庭したと伝えられる近江国小室藩初代藩主の小堀遠州(小堀政一)は、正保4年2月6日(1647年3月12日)没。
つまりは、作庭したと伝えられる元禄元年(1688年)は没後40年以上経っていることになり、遠州流の後継者の作庭ということに。
柴田氏庭園 | |
名称 | 柴田氏庭園/しばたしていえん |
所在地 | 福井県敦賀市市野々町1 |
関連HP | 敦賀観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR敦賀駅からコミュニティーバスで20分、西野神下車、徒歩10分 |
ドライブで | 北陸自動車道敦賀ICから約6km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 敦賀観光案内所 TEL:0770-21-8686 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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