戦時下に機関車を隠したトンネルが、全国唯一、米原市に現存!

岩脇蒸気機関車避難壕

戦時下に滑走路近くに「掩体壕」(えんたいごう)と呼ばれる頑強なシェルターをつくり、戦闘機を格納した遺構は、全国各地に残されていますが、蒸気機関車のシェルターとして現存するのは全国にただ1ヶ所。それが、滋賀県米原市岩脇(いおぎ)にある岩脇蒸気機関車避難壕です。

避難壕とともに方向転換用のデルタ線も配置

第二次世界大戦末期には、ターミナル駅はアメリカ軍の攻撃目標となり、戦闘機からの機銃掃射を浴びることも多く(実際に、米原駅も艦載機による機銃掃射を受けています)、空襲警報とともに米原駅の蒸気機関車を退避させるための防空壕といえる「避難壕」が築くことが急務となったのです。

岩脇蒸気機関車避難壕は、米原市の文化財にも指定される戦争遺跡で(平成29年、滋賀県下で初となる戦争遺跡として米原市の指定文化財に)、ダイナマイトやツルハシなどを使い、人海戦術で崖をくり抜き、2本の蒸気機関車避難壕を掘削した遺構。
掘り出した砕石で避難壕への線路基盤をつくる計画でした。

完成する前に終戦とを迎えたため、工事は中止となり東側は全長110mのトンネルが貫通していますが、西側は南北から掘り進められ、掘削中のまま、南から53m、北からは13mまでで未貫通となっています。
米原市教委歴史文化財保護課の資料によれば、軍事機密だったため(運輸省鉄道総局が緊急秘密工事として進行)、資料も残されていないので、工事の開始時期も定かでありません(終戦間近の昭和20年と推測)。

幅は、広いところで4m、高さは5mほどですが、ぎりぎり蒸気機関車の入るサイズなので、まだまだトンネルの大きさも足りない感じです。

戦後は荒れたままで、ゴミ捨て場にもなっていましたが、こうした歴史を風化させないために、平成20年、「いをぎまちづくり委員会」が結成されて整備に乗り出し、保存されています。

通常、トンネル内は立入禁止ですが、見学会や米原市内の学校の平和学習などに利用され、定期的に開催される見学会に参加すれば、内部を見ることができます。

現在でもトンネル内に立ち入ることができるのは、空爆にも耐えるという硬い岩盤のため。
逆にいえば、掘削には大きな労力を必要としましたが、関西と中京、北陸との連接点である米原が鉄道にとっていかに重要な場所だったのかがよくわかります。

すぐ脇を東海道本線が走りますが、未完成のため、引込線の廃線跡などもありません。
米原駅には当時、蒸気機関車の向きを変える転車台(ターンテーブル)がありましたが、空爆で使用できなくなったことを想定し、デルタ線(三角形に線路を配置、機関車は3辺を前進、バック、前進することで、前向きで本線に復帰)を敷設する計画もありました。

米原駅の南北にデルタ線を配置し、北側のデルタ線の先に位置するのが岩脇蒸気機関車避難壕でした。
岩脇蒸気機関車避難壕の脇を走る東海道線の上り線路は、かつて岩脇蒸気機関車避難壕とデルタ線を結ぼうと考えていた線路の路盤を踏襲したものと推測され、その意味では貴重な戦争遺跡ともいえる場所です。

岩脇蒸気機関車避難壕の横の山には、鎌倉時代の阿弥陀三尊石仏を本尊とする、岩屋善光堂もあるので、外観見学の際には目標となります。

岩脇蒸気機関車避難壕
滋賀県の戦争遺跡調査図面
戦時下に機関車を隠したトンネルが、全国唯一、米原市に現存!
所在地 滋賀県米原市岩脇24-2
場所 岩脇蒸気機関車避難壕
電車・バスで JR米原駅から徒歩30分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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