賤ヶ岳古戦場

賤ヶ岳古戦場

滋賀県長浜市余呉町川並、湖北にそびえる標高421.1mの賤ヶ岳(しずがたけ)山頂一帯が賤ヶ岳古戦場。信長没後の天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、秀吉方で活躍した7人の武将は「賤ヶ岳の七本槍」として有名。この戦勝で、秀吉は一気に天下人としての地位に。

織田後継をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家、激戦の地

賤ヶ岳古戦場

織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、明智光秀も山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後、信長の後継者をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が対立。
天正元年12月2日(1582年12月26日)、秀吉は大軍を率いて近江国(現・滋賀県)へと進軍し、柴田勝家の領地だった長浜城を攻撃。
雪深い越前北の庄城(現・福井市)にいた柴田勝家は援軍を送ることができず、勝家の養子・柴田勝豊は秀吉に降伏。
さらに岐阜城の織田信孝(おだのぶたか=織田信長の三男/柴田勝家と叔母・お市の方との婚儀が岐阜城で行なわれています)も降伏したため、柴田軍は戦況の転換のため、雪解けを待って近江へと出陣しています。

天正11年3月12日(1583年5月3日)、北国街道と越前若狭街道の分岐、近江国柳ヶ瀬(現・長浜市余呉町柳ヶ瀬)に布陣。
対する秀吉軍も木ノ本に布陣し、賤ヶ岳を中心に余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合い、2日間に渡る激戦が繰り広げられたのです。

その結果、羽柴秀吉軍の勝利に終わり、柴田勝家は北の庄城に逃げ帰るも追撃を受けてお市ともども自害する結果に。
結果、織田信長の後継が羽柴秀吉であることを天下に示す戦いとなったのです。

賤ヶ岳の戦いは、わずか2日足らずで終戦。
辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったと伝えられており、とくに賤ヶ岳の北麓には広範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在しています。

後世に伝わる「賤ヶ岳の七本槍」は、加藤清正(かとうきよまさ)、福島正則(ふくしままさのり)、加藤嘉明(かとうよしあきら)、平野長泰(ひらのながやす)、脇坂安治(わきざかやすはる)、糟屋武則(かすやたけのり)、片桐且元(かたぎりかつもと)という忠臣7人の武勇伝。
実際の一番手柄は大谷吉継(おおたによしつぐ)、石田三成だったために秀吉らしい宣伝だったという説もありますが、定かでありません(記録に残る「賤ヶ岳の七本槍」の初出は江戸時代初期の寛永3年に小瀬甫庵が記した『甫庵太閤記』)。

賤ヶ岳の山頂広場(賤ヶ岳砦跡)には、戦跡碑や戦没者の碑が立ち、尾根続きの大岩山頂(大岩山砦跡)に秀秀吉方先鋒二番手で、大岩山砦を守備した中川清秀(なかがわきよひで)の墓が残されています。

賤ヶ岳の山頂広場(賤ヶ岳砦跡)へは、山麓から賤ヶ岳リフトを利用し、下車後、徒歩10分。
徒歩の場合は山麓から山頂まで1時間弱かかり、こんな山上で鎧(よろい)を着けた武者が戦ったのかという思いが、いっそう高まることでしょう。

賤ヶ岳古戦場
名称 賤ヶ岳古戦場/しずがたけこせんじょう
所在地 滋賀県長浜市木之本町大音
電車・バスで JR北陸本線木ノ本駅から湖国バスで5分、大音下車、賤ヶ岳リフトで6分
ドライブで 北陸自動車道木之本ICから約2.5km、賤ヶ岳リフトで6分
駐車場 賤ヶ岳リフト駐車場(20台/無料)
問い合わせ 長浜観光協会 TEL:0749-53-2650/FAX:0749-53-3161
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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