実盛塚

実盛塚

石川県加賀市の篠原古戦場(旧篠原村)にある小さな塚が実盛塚。地元では木曽義仲軍に敗れた斎藤実盛(さいとうさねもり)の亡骸を葬った場所と伝えられ、実盛塚と呼ばれています。塚には高さ10m、幹回り3.3m。東西21m、南北約23mに枝を伸ばす老松が茂っています。

謡曲『実盛』で広く知れ渡る斎藤実盛の塚

斎藤実盛は、武蔵国幡羅郡長井庄(現・埼玉県熊谷市)を本拠とした平安時代末期の武将で、源義朝の配下。
源義朝が尾張国・野間大坊の湯殿で入浴中に討たれると、実盛は関東に戻り、平家に服従。
寿永2年(1183年)、平維盛(たいらのこれもり)らと木曾義仲追討のため北陸に従軍し、越中・加賀国の国境、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で敗北後、敗走中の加賀国の篠原の戦いで木曽義仲の配下、手塚光盛(てづかみつもり)に討ち取られています(『平家物語』で有名)。
斎藤実盛は老齢である事を隠す為に白髪を墨で黒く染め、総大将が着る錦の直垂を着用して奮戦したと伝えられています。
木曽義仲は幼少の頃、斎藤実盛に命を助けられたことがあり、実盛の首を抱きかかえて涙したという言い伝えも。

応永21年(1414年)、遊行上人(ゆぎょうしょうにん=踊り念仏で有名な一遍上人の後継者)がこの地を訪れた時、斎藤実盛の亡霊が現れ、救いを求めたといい、遊行上人が回向(えこう)すると、たちまち成仏したという逸話が残されています。
京、醍醐寺の座主で、「黒衣の宰相」と称された満済(まんさい)の『満済准后日記』(まんさいじゅごうにっき=客観性があり、史料としての価値の高い日記)にも斎藤実盛の亡霊が遊行上人に出会い、念仏を授かったという噂があることが記されているので、当時、京で流布した噂と、室町時代の踊り念仏の大衆化がその背景にはあるのかもしえません。

この逸話が謡曲『実盛』で広く知れ渡る斎藤実盛の伝説。
『平家物語』に基づき、老武者の矜持をテーマにした作品です。

加賀市内には、斎藤実盛が白髪を染めるのに使った鏡を沈めたとされる「鏡の池」、討ち取った首を洗い、黒く塗った髪の色を落としたという「首洗池」もあります。
また多太神社の社宝に、実盛の兜があり、松尾芭蕉も『奥の細道』途中に、兜を拝観しています。

まさに伝説の地の塚なのですが、実際には古墳時代に築かれたもの、つまりは古墳ではないかとも推測されています。

実盛塚
名称 実盛塚/さねもりづか
所在地 石川県加賀市篠原新町
関連HP 加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット公式ホームページ
電車・バスで JR加賀温泉駅からタクシーで12分。またはJR加賀温泉駅前からキャン・バス加賀温泉駅前行きで19分、ホップホップ(地ビール)・実盛塚下車、徒歩3分
ドライブで 北陸自動車道片山津ICから約1.9km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 加賀市観光推進部文化振興課文化財係 TEL:0761-72-7888
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
多太神社

多太神社

石川県小松市にある平安時代編纂の『延喜式神名帳』にも記載される古社が多太神社。倶利伽羅峠・篠原の合戦後、木曽義仲が斎藤実盛(さいとうさねもり)の供養と戦勝を祈願して実盛着用の兜を奉納したと伝えられ、木曽義仲好きの松尾芭蕉は、『奥の細道』途中

首洗池

首洗池

石川県加賀市、片山津温泉のはずれ、国立石川病院に隣接する池が首洗池。一帯は寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で敗走した平家軍と木曽義仲の軍が戦った源平の篠原古戦場。討ち死にした斎藤実盛の首を洗ったのが池の

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ