宝円寺

宝円寺

金沢市の石引、小立野寺院群(こだつのじいんぐん)にある曹洞宗の名刹、宝円寺(ほうえんじ)。「利家とまつの寺」といわれるように加賀藩祖・前田利家が創建し、前田家代々の菩提寺となった寺です。護国山という山号にも加賀国を守るという藩主の思いが込められています。前田利家の葬儀もこの寺で実施。

前田利家の北陸入りから親しかった大透圭徐和尚の開基

宝円寺

前田利家の北陸入りは、天正2年(1574年)、織田信長の命により柴田勝家の与力として越前一向一揆の鎮圧したことに始まります。
小丸城から出土した瓦には前田又左衛門(前田利家)は、一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処したということが記されています。

信長は、越前国の国府のあった武生(たけふ=現在の福井県越前市)を中心とした府中10万石を前田利家、佐々成政、不破光治の府中三人衆に治めさせました。

その際に、越前国高瀬村の宝円寺(現・福井県越前市高瀬1-27-4)の大透圭徐(だいとうけいじょ=利家と同じ尾張国出身)和尚に帰依したのが曹洞宗との付き合いのはじまり。
天正9年(1581年)に前田利家が能登国を領有し、23万石を領有する大名(七尾小丸山城主)となった際に、大透圭徐和尚を招いて七尾に宝円寺(金沢に移る際に休岳山長齢寺と改称)を創建。

さらに天正11年(1583年)、金沢城築城とともに金沢に移った際に、寺も金沢に移り、金沢の曹洞宗寺院の触頭となりました。
当初の寺は、金沢城近く、現在の兼六園東隅にありましたが元和6年(1620年)に現寺地に移りました。
寛文9年(1669年)、5代藩主・前田綱紀が本堂、客殿、庫裏、山門を改築し、「北陸の日光東照宮」と称されるほどの絢爛豪華なものとなりましたが、惜しくも宝暦9年(1759年)の大火で類焼。

明治元年にも火災にあい、本堂は明治5年頃、山門と築地塀はの明治32年、本堂東側の庫裏は昭和2年の再建でいずれも国の登録有形文化財になっています。

御影堂(みえいどう)は、慶長4年(1599年)2月29日、病をおして前田利家が伏見の徳川家康邸で家康と会見した際(家康は秀吉の法度を破り、豊臣派の重臣と対立していました)、死を決して事前に自画像と髪を埋めた場所と伝えられています。

この直後、前田利家の病状が悪化し、大坂の私邸で慶長4年(1599年)3月3日に没し、4月6日、宝円寺で葬儀が行なわれ、4月8日に野田山に葬られました。
法号は、高徳院殿桃雲浄見大居士。

4月13日に開基前田利家公の追善法要がおこなわれるほか、8月10日は、4万6000日分の功徳があるという『四万六千日・地蔵尊大般若祈念』で十一面観世音菩薩がご開帳されます。
前田利家の死後、徳川家康により加賀征伐が検討されますが、後継ぎの前田利長は母・芳春院(まつ)を人質として差し出して、加賀征伐が撤回されています。

前田利家の遺言に従って前田利長は、野田山に墓を築いていますが、墓を守るように野田宝円寺が創建されています。火災で焼失後、芳春院(まつ)が再建。
利家の戒名をとって高徳山桃雲寺として現存しています。

 

宝円寺
名称 宝円寺/ほうえんじ
Hoenji Temple
所在地 石川県金沢市宝町6-14
関連HP 宝円寺公式ホームページ
電車・バスで JR金沢駅から北陸鉄道バス湯涌温泉行きで13分、小立野下車、徒歩8分
ドライブで 北陸自動車道金沢西ICから約7.6km、金沢森本ICから約8km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 宝円寺 TEL:076-231-6050
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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