盛岡城は、鶴ヶ城(若松城)、白河小峰城と並び「東北三名城」に数えられる盛岡城の城跡を整備した公園。盛岡城は不来方城(こずかたじょう)とも呼ばれ、南部藩20万石の藩庁だった城。現在は岩手公園として整備され、「日本100名城」、「日本の歴史公園100選」、「日本の都市公園100選」にも選定。
江戸時代に南部氏の居城となった盛岡藩の藩庁
不来方(こずかた=現在の盛岡)を収める南部信直(なんぶのぶなお)は、1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原攻めにいち早く参陣し、その武功で南部地域を安堵されます。
築城は1598(慶長3)年に南部信直によって着手され、その子で初代藩主・南部利直、2代藩主・南部重直と受け継がれ、1633(寛永10)年頃に総石垣の城が完成しています。
城下町の整備も進み、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋されています。
盛岡城は、花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城で、本丸の北側に二の丸が配され、その北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪がありました。
本丸には天守台石垣が築かれましたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建築され代用天守とされていました。
陸奥盛岡藩の初代藩主・南部利直(南部家の第27代当主)は、それまでの不来方(こずかた)という地名を「盛り上がり栄える岡」という願いを込め、盛岡に改名。
その南部利直、一説では参勤交代途中に花巻城に立ち寄った際、漆器のお椀に一口だけのそばを出したところ、何度もお代わりをしたことが(わんこそば)ルーツとも。
江戸時代後期築の彦御蔵が現存!
明治39年、日本人初の公園デザイナーといわれる長岡安平の設計で、岩手公園として開園。
平成18年には盛岡城跡公園という愛称を決定しています。
藩政時代の盛岡城は、中津川や北上川を外堀とするほど大規模なものでしたが、今では花崗岩を積み上げた石垣に往時を偲ぶのみ。
本丸、二の丸、淡路丸、三の丸部分には美しい石垣が残されています。
苔むした石垣が美しい岩手公園には若き日の宮沢賢治や石川啄木も好んで訪れ、「不来方のお城の草に寝ころびて空にすわれし十五の心」の碑も残されています。
また、吹上御門脇にには宮野小提灯の句集『矮鶏』からの一句が刻まれた句碑「月待つや 独り 古城の松のもと」も立っています。
天守台にあった御三階櫓(3層の代用天守)は、明治維新の変革には抗えず、明治6年に破却。
唯一残されている当時の建造物は、江戸時代後期に建てられた彦御蔵(ひこおくら)で、年に1回公開されています。
盛岡城の土蔵で、平成元年までは現在地から西100mの地点の市道下ノ橋更の沢線西側にありましたたが、道路拡幅に伴って現在の場所に曳家されています。
4月中旬〜5月上旬に『盛岡さくらまつり』を開催
岩手公園にはブンゴウメ,シダレウメ,白梅など,約100本のウメが梅林に植栽され、桜の咲く直前の4月上旬頃まで芳しい香りを漂わせてくれます。
桜はソメイヨシノを主体にサトザクラ、エドヒガンなど200本が植えられ、4月中旬〜5月上旬に『盛岡さくらまつり』を開催。
盛岡城の内堀跡の鶴ケ池、亀ケ池には中津川から水が引かれ、5月には鶴ケ池の藤棚、7月には池周辺のアジサイが満開に。
鶴ケ池から中津川に注ぎ込むせせらぎは、ホタルの里で、秋にはカエデの紅葉が見事。
西洋庭園風に整備されたバラ園には数十種のバラが植栽され例年6月中旬頃〜8月頃が見頃。
盛岡城三の丸・鳩森下曲輪跡には南部氏の始祖・南部光行、南部信直、南部利直、10代藩主・南部利敬(なんぶとしたか)を祭神とする櫻山神社(さくらやまじんじゃ=桜山神社)が鎮座しています。
岩手公園(盛岡城) | |
名称 | 岩手公園(盛岡城)/いわてこうえん(もりおかじょう) |
所在地 | 岩手県盛岡市内丸岩手公園 |
関連HP | 盛岡観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR盛岡駅から岩手県交通都心循環バスでんでん虫左回りで7分、岩手公園前下車 |
ドライブで | 東北自動車道盛岡ICから約6.5km |
駐車場 | 市営岩手公園地下駐車場(93台/有料) |
問い合わせ | 盛岡市公園みどり課 TEL:019-639-9057/FAX:019-637-1919 |
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