奥州平泉(岩手県平泉町)、中尊寺の東南にある丘陵地・高館(たかだち)は、兄・源頼朝に追われ奥州へと逃げた源義経が居館としていた場所で、文治5年4月30日(1189年6月15日)、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の急襲を受け、妻子とともに自害した地。終焉の地には高館義経堂(たかだちぎけいどう)が建っています。
芭蕉も義経の悲運に思いを馳せた高館
高館は、かつて北上川を望む丘陵地でしたが、流れを変えた北上川に削られ、高館の跡は半減しています。
地元でこの要害の地が判官館(はんがんだて)と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったから。
現在は、天和3年(1683年)、仙台藩4代藩主・伊達綱村(だてつなむら)が建立した義経堂が建てられ、甲冑姿の木造が安置されています。
芭蕉は、元禄2年5月13日(1689年6月29日)、高館と毛越寺を訪れ、義経を偲んで「夏草や兵どもが夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)」と詠んでおり、高館には芭蕉句碑も建てられています。
埼玉県の草加松原に始まる「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に指定されています。
また『奥の細道』に記された「先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也」という高館からの眺望は平泉随一といわれています。
義経は自害せずに蝦夷地に落ちのびたという義経北行伝説のスタートは、この高館に始まっています。
ちなみに義経の逃亡潜伏先の衣川館(ころもがわのたち)は、接待館遺跡(奥州市衣川区七日市場)とする説もあり定かでありません。
弁慶の最期は!?
中尊寺境内には武蔵坊弁慶の墓(「伝弁慶墓」)もありますが、弁慶の活躍は、後世(南北朝時代から室町時代初期)に書かれた『義経記』(ぎけいき)に記されるのみで、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日条、11月6日条と2回登場し、義経郎党の一人として名が記されているのみ。
つまりは、平泉まで帯同したことも歴史的には怪しいくらいなのです。
『勧進帳』でも主役を張っており、仁王立ちしたという最期(弁慶の立往生)を思い浮かべますが、歴史的にはすべて疑問符がついています。
つまりは、平泉まで帯同したことも歴史的には怪しいくらいなのです。
『勧進帳』でも主役を張っており、仁王立ちしたという最期(弁慶の立往生)を思い浮かべますが、歴史的にはすべて疑問符がついています。
高館義経堂 | |
名称 | 高館義経堂/たかだちぎけいどう |
所在地 | 岩手県西磐井郡平泉町柳御所14 |
関連HP | 高館義経堂公式ホームページ |
電車・バスで | JR平泉駅から徒歩20分 |
ドライブで | 東北自動車道平泉前沢ICから約3.5km、一関ICから約9km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 高館義経堂 TEL:0191-46-3300 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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