「日本のポンペイ」、群馬県嬬恋村鎌原地区へ(鎌原観音堂)

ナポリの南東29kmにあるポンペイは、ヴェスヴィオ火山(Il monte Vesuvio)の大噴火により、大量の火山灰に覆われてしまい、町が再び発見されたのは、18世紀のことです。実は、日本にも火山の大爆発でまたたく間に消え去った村があります。それが群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原(かんばら)地区で、浅間山の天明の大噴火によるもの。

天明の大噴火で鎌原村が消失!

鎌原村では火砕流などで477名が死亡、生存者はわずか93名

『浅間山夜分大焼之図』

ナポリ民謡にも歌われたサンタ・ルチアの港から見える雄大なヴェスヴィオ火山。
古代ローマ時代の西暦79年、大噴火を起こして、近くの街々を滅ぼし、およそ2000人が犠牲となりました。
歴史から消えた街の名は「ポンペイ」(Pompei)。

ポンペイは紀元前の出来事ですが、「日本のポンペイ」は近世の話なので、記録も比較的詳細に残されています。

天明3(1783)年の浅間山の大噴火。
旧暦7月8日(西暦8月5日)の大噴火で発生した火砕流は、鎌原村(現在の嬬恋村鎌原地区)では1村152戸が飲み込まれて477名(供養碑に刻まれる数)が死亡。
上野国(現在の群馬県)全体でで1624名を超す犠牲者を出しました。

この爆発で生まれたのが世界三大奇観ともいわれる鬼押し出しでが、上野国の死者数はポンペイの死者数に迫る数字です。

爆発で浅間山から流下した溶岩は、大きな火砕流(岩なだれ、さらに熱泥流)となって山腹を走ります(これはヴェスヴィオ火山も浅間山も同じです。)。
この火砕流の被害が大きかったためは、当時は噴火ではなく、「天明の浅間焼け」(てんめいのあさまやけ)とも称されたのです。

北東の大笹方面(「ホテルグリーンプラザ軽井沢」などの建つのが大笹地区です)に流下した火砕流は、大前で吾妻川に流れ込みます。

さらに中央を北流したものは、旧鎌原村を直撃し、現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下したのです。
この中央に流下した「鎌原火砕流」が最大で、流下した量は1億立方メートルにも及ぶ膨大な量。
つまり、鎌原地区一帯では現在も、この「鎌原火砕流」に覆われた表土なのです。

ポンペイのような遺跡が鎌原観音堂

「天明の 生死をわけた 十五段」

鎌原観音堂の石段
鎌原観音堂の石段

浅間山の大噴火で「鎌原火砕流」に襲われ、一瞬にして火山灰の下に埋もれた鎌原村についての詳しい史料は少ないのですが、災害当時の人口は570人で、477名が死亡、生存者は93名(鎌原観音堂奉仕会調べ)だったと推測されています。

鎌原村には観音堂があり、ここに参拝していた人、必死に逃げ登った人は幸いにして九死に一生を得ています。
当時50段の石段があったのですが、現在は火砕流にすっかり埋まってしまい、15段だけが地表に姿を表しています。

昭和54年の発掘調査で、埋没した石段の最下部(49~50段の位置)から女性2名の遺体が出土。
遺体は、髪の毛が残る生々しい状態で、若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかったのです。
詳しい調査が行なわれた結果、若い女性が腰の曲がった年配の女性を背負って逃げる途中で火砕流に襲われたものだと判明。
若い女性は、ひとりなら助かったかも知れないので、母親思いの娘だったのかもしれません。

この15段が、「天明の 生死をわけた 十五段」と呼ばれる階段。
生き残った93名は鎌原村を離れることなく、そして93名の命を助けた鎌原観音堂を代々にわたって守り続けてきたのです。

鎌原観音堂には、歴史を受け継ぎ観音堂を大切に守る 「鎌原観音堂奉仕会」の人々が常駐し、こうした歴史を今に語り伝えています。

隣接する「嬬恋郷土資料館」に当時の資料が展示され、噴火の凄まじさ、噴火の被害、そして甚大な被害に受けながら埋没した集落の上に現在にも続く集落を復興した旧鎌原村の歴史について学ぶことができます。

浅間山

鬼押出し園に寄り道し、溶岩流の恐ろしさを体感

火山荒原から森への回復のプロセスも見学が可能

鬼押し出し

「七月六日、八ッ時より頻りに鳴立、きびしき天も砕け地も裂かと皆てんとうす。先西は京・大阪辺、北は佐渡ヶ嶋、東えぞがしま松前、南は八丈、みあけ島迄ひびき渡り物淋しき有様なり」
(無量院住職『浅間大変覚書』)

遥か彼方まで響き渡った天明の大噴火の爆発音。
1天明3(1783)年の浅間山の大噴火は、降下軽石と吾妻火砕流、鬼押出し溶岩などを噴出。

爆発で流出した溶岩流の規模は、山頂火口から北方へ約5.5km、幅は800m~2kmにも及んでいます。
その溶岩流の岩海が鬼押し出し。
浅間山には鬼が棲むという伝説があったので、江戸時代の村人は鬼が暴れて押し出したと推測したのです。

鬼押出し園で観察できる表面がゴツゴツとした大小の岩塊は、塊状溶岩(かいじょうようがん)と称されるものです。

鬼押出しエリアは、吾妻火砕流や鬼押出し溶岩流により覆われ、火山荒原が広がり、ガンコウラン、クロマメノキなどの高山植物が生育する地にもなっていて、不思議な景観を創出しています。
この火山荒原も長い年月を経て、青木ヶ原の樹海のような森に変わっていくので、そのプロセスが見学できるということに。

鎌原観音堂と鬼押出し園は浅間・白根火山ルートの「鬼押ハイウェー」で結ばれています。
鬼押出し園、鬼押ハイウェーともに西武プリンスホテルズ&リゾーツ(西武ホールディングス)の経営です。

浅間山山麓には火山荒原が広がっています
日本のポンペイ、群馬県嬬恋村鎌原地区へ(鎌原観音堂)
所在地群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原
関連HP嬬恋村公式ホームページ
電車・バスでJR吾妻線万座・鹿沢口駅から西武高原バス軽井沢行きで鎌原観音堂前下車、徒歩1分。長野新幹線・しなの鉄道軽井沢駅から西武高原バス草津・万座温泉・白根火山方面行きで鎌原観音堂前下車、徒歩1分
ドライブで上信越自動車道碓氷軽井沢ICから約36km
駐車場30台/無料
問い合わせ鎌原観音堂 TEL:0279-97-3852
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

日本のポンペイ 5遺跡

日本のポンペイというと、これまでは群馬県吾妻郡嬬恋村の鎌原観音堂(かんばらかんのんどう)が有名でしたが、近年、世界的にも注目されるのが榛名山噴火関連遺跡の25ヶ所。古墳時代に榛名山の噴火による火砕流と軽石に埋もれた遺跡で、その代表的な4ヶ所

鎌原観音堂

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嬬恋郷土資料館

嬬恋郷土資料館

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鬼押出し園

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天明3年7月8日(1783年8月5日)、浅間山の大爆発で北東方向に流出した溶岩流、土石なだれなどによって、1000名を超える死者が出ていますが、鬼押出し園は、その溶岩流の名残り。浅間山の山頂火口から北方へ5.5km、幅800m~2kmに渡っ

鎌原観音堂

「日本のポンペイ」鎌原観音堂(群馬県嬬恋村)を見学

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