城山(城山展望台)

城山(城山展望台)

鹿児島市街の中央に位置する、標高108mの小高い山、城山。鹿児島本線は城山隧道で直下を抜けています。その城山の市街地に迫り出した崖の上にあるのが城山展望台。桜島、薩南諸島へのフェリーが発着する桜島港を眼下に、錦江湾や桜島、大隅半島を一望できる眺望地で、夜は「東洋のナポリ」と称される市街の夜景も見事です。

茂ったクスノキは島津藩の御用木

城山(城山展望台)

城山には、イタジイ、アカガシなどの照葉樹が茂り、約600種もの温帯・亜熱帯性植物が自生する、自然の宝庫でもあり、散策にも最適(シロヤマシダ、シロヤマゼンマイは、城山で発見され命名されたもの)。

山まるごと国の天然記念物に指定されているのです。
戦国時代に島津家久(しまづいえひさ)が城山の東麓に居館・鹿児島城(後の鶴丸城)を築き、城山も城付きの山として警護上の理由から立ち入りが禁じられていたため、江戸時代を通して開発を免れ自然が保護されてきました。
さらに明治になって土地は国有化され、西南戦争の激戦地となりましたが、西郷隆盛の終焉の地として、聖地的な意味合いも生まれ、自然が残されたのです。

ゆったりとした遊歩道は、昭和5年、在郷軍人会の手で自動車道として工事が進められたもので、激しい反対運動が起こったことから、昭和6年に国の史跡、そして天然記念物に指定されたというわけなのです。

城山に茂る樹齢400年を超えるクスノキは、仏像の素材、建材として使う目的、さらには防虫剤や火縄銃の爆薬原料となる樟脳(しょうのう=クスノキの枝葉を蒸留)を採取する目的で島津氏が植林し、御用木として保護したもの(江戸時代には薩摩藩が欧州や中国へ輸出)。

縄文時代には城山山麓の照國神社あたりが海岸だったと推測されています。
つまり、城山は、縄文海進時(現在より海面が数mも高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象)の海食崖なのです。

また、西南戦争のときには、西郷隆盛軍の砦となり、西郷軍司令部の置かれた西郷洞窟や最期に西郷隆盛が自刃した場所も残されています。
駐車場からはゆるやかな登りを徒歩で5分ほど。
途中にみやげもの屋などもあります。
城山の名は、中世に地元の豪族・上山氏が山城を築いていたことに由来。

徒歩の場合は薩摩義士碑から遊歩道を利用(800mで展望台)。
車の場合は、展望台の西側に駐車場があります。

公園に隣接して南西側には「SHIROYAMA HOTEL kagoshima」(城山ホテル鹿児島)もあり、宿泊はもちろん、「絶景展望露天温泉さつま乃湯」の日帰り入浴、様々なレストランでの食事も可能。

城山(城山展望台)
名称 城山(城山展望台)/しろやましろやまてんぼうだい
所在地 鹿児島県鹿児島市城山町19
関連HP 鹿児島市観光サイト
電車・バスで 鹿児島駅前から市電、市役所前下車、徒歩15分
ドライブで 九州自動車道鹿児島北ICから約5.1km。または、鹿児島東西道路田上ICから約5.1km
駐車場 城山公園駐車場(32台/無料)
問い合わせ 鹿児島市観光交流局観光プロモーション課 TEL:099-216-1344
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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