長崎堤防

長崎堤防

鹿児島県薩摩川内市、貞享4年(1687年)に完成した歴史ある堤防が、長崎堤防(ながさきていぼう)。暴れ川として知られる川内川(せんだいがわ)が東シナ海に注ぎ出す河口部分に、治水のために鋸の刃型に構築された堤防で、土木学会選奨土木遺産に認定されています。

江戸時代初期、小野仙右衛門が築いた鋸型堤防

長崎堤防

江戸時代初期、薩摩藩では川内川河口の薩摩郡高江郷高江村(現・薩摩川内市高江町)で、延宝7年(1679年)着工、貞享4年(1688年)竣工という藩内でも最大規模の干拓工事が行なわれました。

当時の高江村は、川内川から海水が流入する周囲4kmほどの入江状の沼地で、満潮時には川舟が通れるほどの水深になり、耕作しても水害にあって、満足に米もとれない湿地帯でした。
「高江三千石 火の地獄」という言葉は、高江村の苦しい暮らしぶりを表しています。

薩摩藩2代藩主・島津光久(しまづみつひさ=島津義久のやしゃご)は、小野仙右衛門を奉行とし、8年の歳月を費やし、長さ640m、3基の水門を有する長崎堤防を完成させ、300町歩(300ha)という広大な高江新田を生み出したのです(完成時、小野仙右衛門は69歳)。
まずは石垣を築き、もっこで土を運んで堤防を築きます。
人力に頼るため、工事中にも水害などの被害を受け、小野仙右衛門の一人娘・袈裟姫が人柱となって身を投じたとの伝説も残されています。
この難工事を完成させた小野仙右衛門のアイデアが、水の勢いを弱めるための鋸の歯形の堤防。
堤防に積まれた石も長さ1m、幅40cm〜50cmに統一され、表側が細く、奥は太くという積み方をしています。

長崎堤防は、その後、何度か改修されて入るものの、基本的なかたちは往時のまま。
まさに小野仙右衛門の労苦と信念、工夫を今に伝える堤防なのです。

川内川の岩壁には、貞享3年(1687年)、小野仙右衛門が工事をなんとしても完成させるという強い決意を刻んだ「心 此為壱塘成就」の文字が残るほか、小野右衛門の功績を顕彰した小野神社が建立されています。

島津光久は、薩摩藩の財政改善のため、寛永17年(1640年)、長野(現・鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発。
幕府の抵抗を受けながら、明暦2年(1656年)に金の採掘が始まっていますが、同時に、新田開発、洪水対策などの産業振興策に尽力しています。
島津光久の治世の時代は、鎖国体制の完成で、それまでの南蛮貿易などの収入が期待できなくなくなり、国内の金山、新田の開発を行ない、別邸として磯庭園(仙巌園)を築いています。
磯庭園(仙巌園)の建設も公共事業的な意味合いがあったのかもしれません。

長崎堤防
名称 長崎堤防/ながさきていぼう
所在地 鹿児島県薩摩川内市高江町
関連HP 薩摩川内市公式ホームページ
電車・バスで JR川内駅からタクシーで15分
ドライブで 南九州自動車道薩摩川内高江ICから3km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 川内歴史資料館 TEL:0996-20-2344
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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