神奈川県三浦市三崎町城ケ島、城ヶ島大橋の下にあるのが『城ヶ島の雨』詩碑・譜碑。『城ヶ島の雨』は、「雨はふるふる城ヶ島の磯に」で知られる北原白秋の詩。大正2年に作詞され、10月に梁田貞が曲を付け、10月30日、東京・数寄屋橋近くにあった「有楽座」で作曲者・梁田自身の独唱で発表されています。
芸術座音楽会のために作詞した舟唄
「『城ヶ島の雨』は大正二年恰度私が相州三崎の城ヶ島の前に住んでゐた頃、芸術座音楽会のために舟唄として作ったものである。この舟唄は梁田貞氏の作曲で、その会で唄はれた。近頃聞けばかの地では今は船頭たちまで唄ってゐるさうである。さうなってくれるとうれしい。」(大正8年『白秋小唄集覚え書』)と自ら解説しています。
北原白秋が三浦三崎、向ケ崎の浜に住んでいたのは大正2年5月〜大正3年3月なので、「芸術座音楽会のために舟唄として作った」のは、大正3年のこと。
北原白秋は、大正元年年7月には、不倫相手である人妻・松下俊子との情事を、俊子の夫に姦通罪で告訴され、大正2年1月2日には、自殺をしようと三崎に出かけていますが(白秋27歳)、三崎の冬でも温かな気候と陽光で自殺を諦め、結果として一家で三崎に移り住んでいるのです。
大正から昭和初期にかけて、ナショナリズムの台頭とともに、童謡運動、新音楽運動、新民謡運動などが起こり、そうした世相を背景に『城ヶ島の雨』も誕生しています。
この作品はもとは『畑の祭』という詩集に収められ、単独の詩集としては刊行されなかったため、『白秋詩集』第1巻(アルス)に収録されています。
梁田貞作曲の『城ヶ島の雨』は、奥田良三が吹き込んだレコードが発売され、全国的な大ヒットに。
国民的な歌手・藤山一郎なども歌い、さらには昭和25年、この曲をモチーフとした映画『城ヶ島の雨』(監督・田中重雄)も長谷川一夫大映専属第一回主演映画(「悲恋の大メロドラマ」)として制作され、城ヶ島の名は一躍全国区となったのです。
帆型をした根府川石でできた詩碑は、北原白秋が生前希望していた「帆型の石が荒磯に突き差したように」を実現し、昭和24年7月10日に建立されたもの。
戦時中、城ヶ島は要塞地帯に指定されたため、詩碑の建立ができず、戦後になってようやく築かれたのです。
昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転し、梁田貞の譜碑が添えられています。
画像協力/神奈川県観光協会
『城ヶ島の雨』
雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か夜明の霧かそれともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを濡れて帆あげたぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる日はうす曇る舟はゆくゆく帆がかすむ
『城ヶ島の雨』詩碑・譜碑 | |
名称 | 『城ヶ島の雨』詩碑・譜碑/『じょうがしまのあめ』しひ・ふひ |
所在地 | 神奈川県三浦市三崎町374 |
関連HP | 三浦市公式ホームページ |
電車・バスで | 京浜急行三崎口駅から京浜急行バス城ヶ島行き城ヶ島行きで白秋碑前下車、徒歩5分 |
ドライブで | 横浜横須賀道路衣笠ICから約15km |
問い合わせ | 三浦市教育部文化スポーツ課 TEL:046-882-1111 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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