川崎河港水門

川崎河港水門

神奈川県川崎市川崎区港町、多摩川河口にある高さ20.3m、水門幅10.0m、コンクリート造りの水門が川崎河港水門(かわさきかこうすいもん)。大正7年に始まった多摩川改修工事の一環、多摩川と陸側に伸びる予定の運河を隔てる水門として、昭和3年に完成。国の登録有形文化財、近代化産業遺産になっています。

「幻の大運河計画」を今に伝える運河の水門

大正時代、第一次世界大戦(大正3年〜大正7年)による好景気を背景に、川崎市は多摩川の堤防から内陸側にに運河を開削し、掘削で生まれた土砂で両岸を埋め立てて工場や住宅地にするという大規模な運河・港湾計画を立案。
多摩地区のセメント原料(石灰岩)を川崎に運ぶため、青梅鉄道や南武鉄道を敷設した浅野財閥の浅野総一郎は、渋沢栄一、安田善次郎らの協力を得て、大正2年から川崎から鶴見にかけての臨海部を埋め立て、鶴見・川崎海岸地区(418ha)の埋立事業に着工。
専用埠頭を設け、原材料を輸入し、製品を輸出する総合的な重工業用地として計画的に造成された日本初の臨海工業地帯が誕生したのです。

多摩川改修事務所長で内務省土木技師・金森誠之(かなもりしげゆき)が設計したのが(大正15年に着工)、高さ20.3m、水門幅10.0mの川崎河港水門。
味の素が建設資金(54万円)を調達したことから、今も水門周辺の土地は味の素川崎事業所の所有。
水門は、2つの塔と、それをつなぐ梁、そしてゲートによって構成されたお洒落なフォルムで、渦巻き模様と飾り窓のついた塔の上には、川崎市の市章と梨、桃、ブドウと、当時の川崎市の農産物がモチーフになった装飾が施されています。
「長十郎」は明治26年、大師河原村出来野(現・神奈川県川崎市川崎区出来野)の当麻辰次郎が生み出したもの、明治時代に外来の桃が栽培されたのが大師河原村、そしてブドウ栽培も盛んという当時の川崎の農業事情を反映しているのです。

赤いレンガの土台は、金森誠之が考案した金森式鉄筋レンガ。

昭和10年に内務省の認可が下りた際には、運河予定地に現在ほど建築制限がなかったため、工場や住宅がすでに進出し、第二次世界大戦への突入もあり、運河計画は昭和18年に廃止。
運河自体の開削も水門から220mだけ実現しましたが、その後埋め立てられて、水門に接続する部分の80mが舟溜まりとして残存するのみとなっています。

川崎河港水門は、近年まで現役で機能し、千葉方面からの砂利の陸揚げ施設として、1日数隻の砂利運搬船の出入りに利用されていましたが、現在では浸水対策(令和元年の台風19号で周辺が浸水)として青色ゲートも閉鎖され、止水壁が築かれています。

川崎河港水門は、JR鶴見線(旧鶴見臨港鉄道)、「電気の史料館」の送電遺産群とともに、「京浜工業地帯のインフラ施設」として、経済産業省の近代化産業遺産『重工業化のフロントランナー』京浜工業地帯発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」にも認定。
まさに京浜工業地帯発展のシンボル的な存在になっているのです。

川崎河港水門
名称 川崎河港水門/かわさきかこうすいもん
所在地 神奈川県川崎市川崎区港町66
関連HP 川崎市公式ホームページ
電車・バスで 京浜急行鈴木町駅から徒歩10分
問い合わせ 川崎市河川課 TEL:044-200-2903
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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