神奈川県横浜市中区山下町、横浜人形の家の南側、山下長津田線沿い、横浜合同庁舎一帯が、ヘボン博士邸跡。ヘボン式ローマ字で知られ、明治学院を創立したジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)が横浜居留地に最初の邸宅を築いたのが、横浜居留地39番です。
ヘボン博士が最初に横浜居留地に居を構えた地
安政6年9月22日(1859年10月17日)に来日、横浜に上陸したヘボンは、神奈川宿(現・横浜市神奈川区)の成仏寺本堂を住まいとし、宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始しています(生麦事件では、アメリカ領事館として使われていた本覺寺に逃げ込んだ負傷者の治療にあたっています)。
成仏寺本堂は仮住まいだったため、文久元年(1862年)12月、横浜居留地(山下居留地)39番に移り、住居(宣教師館)、施療所、礼拝堂兼教室を構え、横浜第一長老公会を設立しています。
文久2年(1863年)、男女共学の英語塾・ヘボン塾を開設したほか、聖書の翻訳、目を治療した実業家・岸田吟香(きしだぎんこう=印刷のためにヘボンとともに上海へ渡航)の手助けを受け、日本最初の和英辞典『和英語林集成』(この辞典のローマ字綴りがヘボン式ローマ字の基礎)の編纂なども行なっています。
本格的な施療所を構えたため、宗興寺の神奈川施療所とともに神奈川県の近代医療の発祥の地にもなっています。
緑地に立つ記念碑とレリーフは、ヘボン来日90周年にあたる昭和24年に建立。
横浜居留地は山下地区が手狭になったため、外国人には「THE BLUFF」(断崖、絶壁の意)と呼ばれて親しまれた眺めのいい山手地区に拡大。
ヘボンも明治9年1月、ヘボン塾を長老教会の教育宣教師ジョン・クレイグ・バラ(John Craig Ballagh)に託し、山手245番に転居しています。
山手居留地は慶応3年(1867年)に居留地となっていますが、本格的に整備されたのは明治初年です。
ヘボン博士邸跡 | |
名称 | ヘボン博士邸跡/へぼんはくしていあと |
所在地 | 神奈川県横浜市中区山下町 |
電車・バスで | 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩2分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag