7世紀に百済から亡命した「百済王氏」が築いた百済寺の遺構が、枚方市に!

百済寺跡

7世紀、朝鮮半島では倭と友好関係にあった百済(くだら/ペクチェ)が滅亡。百済の王族・百済王氏(くだらのこにきしし=百済王の子・善光を祖とする一族)は倭国に渡り、貴族となって活躍。その遺構が大阪府枚方市(ひらかたし)にある百済寺跡です。

百済滅亡後、激動の7世紀を亡命先の倭国で生き抜く

百済寺跡
百済寺の遺構、東塔跡

7世紀の東アジアは激動の時代でした。倭国(日本)では中央集権国家体制が整いつつあり、大化改新を経て律令制の導入が進んでいましたが、朝鮮半島では西部にあった百済が660年(斉明天皇6年)に滅亡。

百済の王族や遺臣たちは倭国の支援を受け百済復興運動を起こし、中大兄皇子は、百済救済を支持し、倭国も軍を派遣しますが、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死。
倭国・百済遺民の連合軍は、663年10月(天智2年8月)、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で、唐・新羅連合軍に大敗、こうして朝鮮半島の動乱は倭国敗退で幕を閉じています。

この敗北を受け、倭国は北九州や瀬戸内に百済の技術者の手を借りて朝鮮式の山城を築城、唐・新羅連合軍の到来に備え、さらに唐との友好関係回復に務めています。

同時に、倭国に亡命した百済の王族、遺民を受け入れています。
百済王氏は、百済最後の王・義慈王(ぎじおう=滅亡時に唐軍の捕虜となり、妻子とともに長安に送られ、長安で没)の子・善光(ぜんこう/義慈王には41人の子がいたと伝えられます)は倭国に亡命、難波(現・大阪市)に居を構えています。

百済王氏は善光を祖とする一族の名で、7世紀後半に難波を拠点として百済寺・百済尼寺を築き、さらに8世紀後半には交野郡中宮郷(現・枚方市)に拠点を移し、百済寺を建立しています。
この枚方市にある百済寺を創建したと推測されるのが、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)。
そして、8世紀創建の百済寺の遺構が、現在、枚方市にある百済寺跡というわけです。

百済王敬福は、多賀城(現・宮城県多賀城市)赴任時の天平21年(749年)に陸奥国小田郡で砂金を発見して朝廷に献上し、東大寺大仏の完成に大きな功績を残しています。

ちなみに、7世紀の朝鮮半島からの渡来人(帰化人)は、百済人を中心に王族・貴族から僧侶、庶民まで多様。
白村江の戦いでの敗北は、倭国にとっては大きな転機となり、大王を中心とした中華的・中央集権的な国家を樹立することになるのです。

渡来人は百済系の人は畿内とその周辺に、新羅・高麗系の人は東日本に暮らすようになり、関東には高麗という地名が残されています。

百済寺跡
講堂跡

7世紀「百済王氏」の主な出来事

年号内容
664年
(天智天皇3年)
百済王善光・難波に拠点を与えられ、朝廷に仕える
665年
(天智天皇4年)
百済の王族・鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女400人を近江神前郡に
田地が支給される
666年
(天智天皇5年)
男女2000余人を甲斐国他東国に居く
669年
(天智天皇8年)
百済の王族・余自信(よじしん)ら男女700人、近江国に移住
百済王善光とその一族は、「百済王氏」という氏姓を朝廷から賜る
7世紀に百済から亡命した「百済王氏」が築いた百済寺の遺構が、枚方市に!
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百済寺跡

百済寺跡

大阪府枚方市にある古代寺院跡が百済寺跡(くだらじあと)。百済(くだら=古代の朝鮮半島にあった王国)が滅亡した時の最期の国王・義慈王(ぎじおう)から数えて4代目の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく・698年~766年)が8世紀の中頃に氏寺

 

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