耳塚

朝鮮侵略を目的に、豊臣秀吉が2度の出兵を行なった、文禄・慶長の役(朝鮮では「壬辰・丁酉の倭乱」)。慶長の役の際、軍功の証として慣例である首級(しるし)の代わりに、敵兵の耳や鼻などを切り落とす「鼻切り令」が出されました。その鼻や耳を埋めて供養したと伝えられる塚が耳塚です。

耳塚とも鼻塚ともいわれる豊臣秀吉の負の遺産

軍奉行は敵兵の耳や鼻の数を確認し、武将に「鼻請取状」という証拠の書類を発行(佐賀県立名護屋城博物館などに収蔵されています)。
例えば毛利軍先鋒・吉川広家は、1245の鼻を提出し、軍目付・早川長政が確認して「鼻請取状」を発行しているのです。
「鼻請取状」に見る諸大名の記録によれば、吉川家18350、黒田家8187、鍋島家5444という膨大な数に及んでいます。
黒田家では将兵ひとりにつき、鼻3つというノルマまで課せられていました。
しかも、鼻や耳の数そのものが戦功の判断基準となったため、必ずしも敵兵ばかりでなく非戦闘員である婦女子の鼻も混じっているともいわれています。

朝鮮半島に派兵された武将たちは、それらを塩漬けにして樽に詰めて持ち帰り、京に運びました。
それらの数万という鼻や耳が秀吉の命で、この地に埋められ、塚が築かれたと伝えられ、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡になっています。

当初は「鼻塚」と呼ばれていましたが、徳川家康に方広寺の鐘の銘文を徳川家を呪う内容と進言した林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻をそいだ「鼻塚」ではあまりに野蛮だというので「耳塚」と記して以降、耳塚と称するのが一般的に。

現在は高さ7mの墳丘の上には大きな五輪塔が建てられ、供養の儀がもたれている。
周囲の石柵は大正4年5月に歌舞伎役者・片岡仁左衛門、浪曲師・桃中軒雲右衛門、俳優・川上音次郎など当時の人気役者たちが奉納したもの。
発起人は京都で勇山一家を率いていた侠客「伏見の勇山」こと小畑岩次郎。

耳塚
名称 耳塚/みみづか
Mimizuka(Ear mound)
所在地 京都府京都市東山区茶屋町耳塚児童公園内
電車・バスで JR京都駅から市バスで7分、博物館三十三間堂前下車、徒歩5分。または、京阪本線七条駅から徒歩5分、京阪本線五条駅から徒歩8分
駐車場 なし
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