京都府京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の古刹が正伝寺(しょうでんじ)。鎌倉時代に東巌慧安禅師が一条今出川に仏殿を構え弘安5年(1282年)に現在地に移転した禅寺で、正式名は正伝護国禅寺。知る人ぞ知る名庭「獅子の児渡し庭園」は、比叡山を借景にした見事な枯山水庭園です。
比叡山を借景にした「獅子の児渡し庭園」は必見
鎌倉時代最大の国難といえば、蒙古襲来(元寇)。
大分の国東半島の六郷満山とよばれた寺院群でも必死に降伏祈願・国家安泰の祈願が行なわれましたが、正伝寺も、「国敵を摧破(さいは)せしめられんことを」(東巌慧安の祈願文より)を目的に創建され寺なのです。
応仁の乱で荒廃しますが、豊臣秀吉が再建し、江戸時代初期に、徳川家康の片腕として活躍し、「黒衣の宰相」といわれた金地院祟伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)が再興。
重要文化財に指定される本堂は、承応2年(1653年)、南禅寺塔頭・金地院の小方丈(金地院御成殿)を金地院崇伝没後に最岳元良(さいがくげんりょう)が正伝寺に移築。
内部には狩野山楽(かのうさんらく=狩野永徳の養子で、永徳の後継者として豊臣家関係の諸作事に関わった絵師)の襖絵、伏見状の血染めの廊下板を用いたという「血天井」などの見どころも多数。
比叡山を借景にした枯山水庭園「獅子の児渡し庭園」は、小堀遠州の作といわれ(南禅寺塔頭・金地院にも小堀遠州作の庭園があります)、白砂敷きの平庭にツツジの刈り込みを配した美しさは格別。
JR東海「そうだ 京都、行こう。」の平成8年秋のCMは正伝寺で、一躍脚光を浴びましたが、それでもまだまだ知る人ぞ知る存在だと、京都のベテラン観光タクシーの運転手たちも、おすすめの名庭です。
歴史的な変遷を有する本堂は、もともと豊臣秀吉が京に築いた聚楽第(じゅらくだい)の一部だった建物で、秀頼の誕生で、豊臣秀次(秀吉の甥で、秀吉の後継者)が高野山青巌寺に蟄居後、切腹になったため伏見城の御成殿となり、さらに伏見城の落城後に南禅寺塔頭・金地院に移され、最終的に正伝寺に移築されたと伝えられています。
伏見城の血に染まった床が方丈広縁(廊下)の天井に使われたもので「血天井」と呼ばれています。
徳川家康が上杉征伐を図った隙をついて石田三成は挙兵し、家康の三河以来の忠臣・鳥居元忠(とりいもとただ)は伏見城に籠城。
宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら西軍4万という大軍に囲まれ、わずかに1800名で守備する伏見城は奮戦むなしく2週間で落ちていますが、鳥居元忠ら徳川方将兵380人は自刃し、城内は血の海となったのです。
この伏見城の血の付いた遺構は、その弔いのため正伝寺をはじめ、鷹ヶ峰の源光庵、三十三間堂近くの養源院、大原の宝泉院、宇治の興聖寺に移築されたと伝わっています。
正伝寺では、伏見城で御成殿と称した武者隠しのある広間を方丈として使用。
ちなみに、「獅子の児渡し庭園」は、昭和54年、宝酒造の焼酎「純」のCM撮影の際、CMに起用されたデビッド・ボウイ(David Bowie)が自ら撮影場所に指定した庭(放送は昭和55年)。
正伝寺 | |
名称 | 正伝寺/しょうでんじ |
所在地 | 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72 |
関連HP | 正伝寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR京都駅から市バスで43分、神光院前下車、徒歩15分 |
ドライブで | 名神高速道路京都南ICから約12km |
駐車場 | 15台/無料 |
問い合わせ | 正伝寺 TEL:075-491-3259 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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