酢屋・坂本龍馬寓居跡

酢屋・坂本龍馬寓居跡

京都市中京区にある材木商、酢屋(すや)。創業時より現在に至るまで、所在地や屋号が変わっていない老舗で、そこが坂本龍馬寓居跡(さかもとりょうまぐうきょあと)。幕末には高瀬川沿いに長州藩、土佐藩などの藩邸が建ち並び、連絡にも便利だったこともあって坂本龍馬も材木商・酢屋嘉兵衛の店「酢屋」に身を寄せています。

龍馬と海援隊隊士をかくまった京の町屋が現存

三条大橋にほど近い場所に建つ酢屋は、高瀬川の舟運で大坂と結ばれ、江戸へは東海道が通じているという便利な場所だったのです。
坂本龍馬と海援隊隊士をかくま った京の町屋は現存し、1階は「創作木工芸酢屋」、龍馬をかくま った2階は「ギャラリー龍馬」となっています。

酢屋は享保6年(1721年)に創業し、今も銘木販売を続けています。
坂本龍馬が身を寄せた幕末、6代目・酢屋嘉兵衛は、高瀬川の開削した角倉家(すみのくらけ)から材木独占輸送権を得て運送業も営んでいました。
慶応3年(1867年)6月、その酢屋の2階表西側の部屋に、坂本龍馬は「才谷」と名乗って暮らし、海援隊屯所として機能したのです。
その後、新撰組や見廻り組を警戒して11月に土佐藩邸により近い、近江屋新助方へ転居しています。
そして、11月15日、近江屋で見廻り組に暗殺されたのです。

酢屋に入る直前には、長崎から兵庫津への移動の際、後藤象二郎を伴った藩船「夕顔丸」船中で、有名な「船中八策」を発案し、「船中八策」に基づいた王政復古を目標として薩土盟約が結ばれています。
そして酢屋滞在中の10月13日、将軍・徳川慶喜は二条城で後藤象二郎を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。
翌10月14日に明治天皇に上奏、10月15日に勅許が下されています。
幕末の、もっとも激動したともいえる慶応3年(1867年)、龍馬は酢屋の2階を拠点に、政情に気を配り、日本の行く末を見つめていたのです。

酢屋・坂本龍馬寓居跡
名称 酢屋・坂本龍馬寓居跡/すや・さかもとりょうまぐうきょあと
所在地 京都府京都市中京区大黒町河原町通三条下ル一筋目(龍馬通)
関連HP 酢屋公式ホームページ
電車・バスで 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩6分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約9kmで市営御池駐車場
駐車場 市営御池地下駐車場(1000台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 酢屋 TEL:075-211-7700/FAX:075-256-6066
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
寺田屋

寺田屋

京都・伏見を流れる濠川(ごうかわ・ほりかわ)に面したかつての船宿が寺田屋。三十石船が往来した時代は、大いに賑わったとか。幕末に勤王派の急先鋒であった薩摩藩士が、島津久光の命で同士討ちされた「寺田屋騒動」が起きた場所。さらに坂本龍馬が隠れ家と

坂本龍馬遭難之地(近江屋跡)

坂本龍馬遭難之地(近江屋跡)

京都市中京区塩屋町にある坂本龍馬が暗殺された近江屋跡が坂本龍馬遭難之地。慶応3年11月15日(1867年12月10日)、海援隊隊長・坂本龍馬と陸援隊長・中岡慎太郎が、河原町通蛸薬師の井口新助が営む醤油屋「近江屋」で、京都見廻組の襲撃を受け殉

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ