幕末動乱の京の歴史を語るとき、統幕の中心となった長州藩士・桂小五郎(かつらこごろう=維新の三傑、木戸孝允)と長州藩は欠かせません。二条を少し下がった河原町通沿いに長州藩京屋敷はありましたが現在は「京都ホテルオークラ」の敷地となっており、石碑と桂小五郎の銅像が立っています。
長州屋敷址碑と桂小五郎像が立つ
会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚後、朝廷では公武合体派が主流となり、長州藩、久留米藩、土佐藩、肥後藩などの尊王派は、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)というクーデーター計画を進めていたとされています(ただし、知名度を上げるための新撰組による捏造という可能性も)。
元治元年6月5日(1864年7月8日)、長州藩の急進派が新撰組に襲撃された池田屋事件(池田屋騒動)の際には、藩士をいさめるために桂小五郎はこの長州藩邸から池田屋に出向いています。
しかし、時間が早かったので、対馬藩邸に外出し、新撰組急襲の難を避けることができたのです。
幕末には京の小さな一角が大きなドラマを生んでいますが、その中心的存在が、この長州藩京屋敷だったのです。
幕末に尊王攘夷運動の拠点となった長州藩京屋敷は、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変=長州藩の会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指した挙兵)で焼失。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)の初戦となる慶応4年1月3日〜1月6日(1868年1月27日〜1月30日)の鳥羽・伏見の戦いの後、焼け跡だった長州藩屋敷跡は、江戸へと向かう長州兵(官軍)の調練場になったのです。
失意の長州藩から官軍へ、その間、わずかに3年半、激動の時代の京が、この一角に凝縮されています。
長州藩京屋敷跡 | |
名称 | 長州藩京屋敷跡/ちょうしゅうはんきょうやしきあと |
所在地 | 京都府京都市中京区一之船入町 |
電車・バスで | 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩すぐ |
ドライブで | 名神高速道路京都南ICから約9kmで市営御池駐車場 |
駐車場 | 市営御池地下駐車場(1000台/有料)など周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548 |
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