佐久間象山・大村益次郎遭難の地

佐久間象山・大村益次郎遭難の地

京都府京都市中京区上樵木町にある、京に数ある幕末の動乱事件を今に伝える石碑が佐久間象山・大村益次郎遭難の地。公武合体派で開国論者の重鎮、佐久間象山(さくましょうざん)は、元治元年7月11日(1864年8月12日)、尊皇攘夷派の熊本藩士・河上彦斎(かわかみげんさい)らに襲われ、命を落としています。

佐久間象山が尊王攘夷派に襲われ、落命した地

元治元年(1864年)、佐久間象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜、将軍・徳川家茂らに公武合体論と開国論を説いていました。
当時、京には多くの尊王攘夷派が集結、佐久間象山を斬ったのは肥後の河上彦斎(かわかみげんさい=人斬り彦斎、幕末の四大人斬りの一人で漫画『るろうに剣心』の主人公、緋村剣心のモチーフ)らと伝わっています。
西洋鞍の馬上で刺され、後ろ傷があったことから佐久間家は断絶。
息子の恪二郎(三浦啓之助)は、仇を討つために新撰組に入隊しています。

その場所の高瀬川を隔てた対岸に遭難の地碑が立っていますが、川があるので対岸から眺めるだけとなります。
維新の十傑にも数えられる大村益次郎は戊辰戦争直後の明治2年9月4日、三条木屋町の旅宿で元長州藩士らに襲われ重傷を負い、一命はとりとめて、大坂鈴木町の病院に入院しますが、蘭医ボードウィンの手術を受けますが、手遅れで傷口から菌が入り敗血症のため死去。
近代的な軍制への兵制改革に不満を持った旧士族が暴徒となって襲い、明治政府は貴重な人材を失いました。
遭難の碑は、佐久間象山に並んで立てられています。

佐久間象山・大村益次郎遭難の地
名称 佐久間象山・大村益次郎遭難の地/さくましょうざん・おおむらますじろうそうなんのち
所在地 京都府京都市中京区一之船入町
関連HP 京都市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 地下鉄東西線京都市役所前駅から徒歩3分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約9kmで市営御池駐車場
駐車場 市営御池地下駐車場(1000台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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