二条城 二の丸御殿・大広間(国宝)

二の丸御殿・大広間

3代将軍家光の時、大御所となった徳川秀忠が大改修したのが現存する二条城の二の丸御殿。入口からいずれも国宝となった6棟が続きますが、遠侍、式台に続くのが大広間です。将軍と大名や公卿衆との公式の対面所で、最後の将軍となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を表明した歴史的な場所です。

徳川慶喜は、一の間に着座し、大政奉還を表明

二の丸御殿・大広間
大広間・四の間

一の間、二の間、三の間、四の間があり、主室が一の間(上段の間)、二の間(下段の間)。
将軍が着座する一の間(上段の間)は床の間、違棚、付書院、帳台構を備えた書院造り。
ここに将軍は南面して着座し、床の間に三幅対の掛軸をかけ、違棚や付書院には工芸品などを飾ったといわれています。
外国の使者などもこの大広間で対面しました。

三の間は対面相手が控えた部屋で、四の間が補助となる部屋。
徳川家の末代までの繁栄を願い障壁画は狩野探幽筆となる巨大な松、そしてアクセントに鳥。
金箔を背景にした豪華なもの。
描かれる鳥は、一の間では錦鶏鳥(きんけいちょう)、二の間と 三の間ではクジャクといずれも異国の珍鳥。
美しい将軍家への献上品を描くことで、その権威を誇示したと推測されています。
四の間の鳥だけは、勇壮な姿のタカとワシで、こちらは権力者のシンボル的な鳥を配したということに(四の間障壁画は徳川秀忠の恩赦を受けた狩野山楽が担当/豊臣方の家臣として一時期は筆をとっていません)。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、徳川慶喜は、一の間に着座し、大政奉還を表明しています。

徳川御三家や重要や公家に関しては、この大広間ではなく、さらに奥の黒書院に通され、格式の違いを示していました。

二条城 二の丸御殿・大広間(国宝)
名称二条城 二の丸御殿・大広間/にじょうじょう にのまるごてん・おおひろま
所在地京都府京都市中京区二条通堀川西入ル二条城町541
関連HP元離宮二条城公式ホームページ
電車・バスで地下鉄東西線二条城前駅下車、徒歩2分で東大手門。JR京都駅から市バスで17分、二条城前下車、徒歩1分で東大手門
ドライブで名神高速道路京都南ICから約7.7km
駐車場第1駐車場(120台/有料)、第3駐車場(20台/有料)
問い合わせ二条城 TEL:075-841-0096/FAX:075-802-6181
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
二条城・二の丸御殿

二条城・二の丸御殿

京都府京都市中京区、徳川家の栄枯盛衰を今に伝えるのが世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産にもなっている二条城です。二の丸御殿は、東大手門から入城し、唐門をくぐった先にあるのが二の丸御殿。後水尾天皇の二条城行幸に備え、寛永3年(1626年)

二条城

徳川家康が京都の守護と上洛時の宿泊場所として1603(慶長8)年に築造し、3代将軍・徳川家光が伏見城の遺構を移すなどして1626(寛永3)年に完成したのが二条城(元離宮二条城)。1867(慶応3)年に15代将軍・慶喜が大政奉還を行なうまで京

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