鉄道ツウでも意外に知らないのが、九州と本州の間にある、関門海峡の海底に通じる「豆トンネル」。関門海峡には関門鉄道トンネル(昭和17年開通)、関門国道トンネル(昭和33年開通)、関門橋(昭和48年)、山陽新幹線の新関門トンネル(昭和50年)がありますが、この豆トンネルは昭和14年に開通しています。
実は日本で最初に貫通した海底トンネルが「豆トンネル」

九州と本州を結ぶ関門海峡は、膨大な輸送量がありましたが、もともとは北海道と本州間を結ぶ鉄道連絡船の青函連絡船同様に、関門連絡船が運航していました(明治34年〜昭和39年/下関駅〜門司港駅)。
関門海峡に鉄道を通す海底トンネルの建設計画が本格化したのは、昭和初期。
明治44年には、海峡のもっとも狭くなる早鞆の瀬戸に橋をかける橋梁案、海底トンネルを掘削するトンネル案が検討され始め、大正時代にトンネル案が採用されるようになったのです。
当時、すでに航空機が発達し、軍部が橋梁の空爆を恐れたというのも大きな理由となりました。
まだまだ蒸気機関車(SL)全盛の時代で、山陽本線の全線電化は昭和39年のこと。
トンネルの勾配も蒸気機関車の牽引を前提に設計されています。
大正12年、関東大震災が発生、その復旧に資金が回されたこと、昭和2年に発生した昭和金融恐慌などの余波を受け、計画が本格化したのは鉄道連絡船の貨車輸送が限界となりつつあった昭和9年のこと。
昭和10年に関門トンネルの建設が決まりますが、海底にトンネルを通すことができるのか、ボーリング調査、潜水艇による調査が行なわれた後、ロンドンのテムズ川河底に通したテムズトンネルの建設工事に使われたシールド工法で掘削されることが決まりました。
本坑(実際の鉄道トンネル)を掘削する前に、本坑より深い場所に試掘坑道を掘削することになり、これが、現在「豆トンネル」として残る日本初の海底トンネル。
本坑完成後は電力・通信ケーブルを収容し、排水路としての役割も担うということで、試掘坑道の掘削が行なわれたのです。
「豆トンネル」という名前は、当時取材した新聞記者の命名。
下関、門司の両側には「豆トンネル」の出口はなく、立坑が地中深くに掘られて、その立坑の底から少し上り坂となって海峡の中央部を目指すスタイルで、海峡中央部がもっとも高い部分という排水を考えたスタイルとなっていました(本坑工事中のトンネル内の湧水を「豆トンネル」に落とし、両岸の立坑に流して、ポンプアップで排水する仕組み)。
門司の立坑は深さ45.8m。
そこから全長1322m、幅、高さはともに2.5mの「豆トンネル」を掘削しています。
関門海峡には国道トンネルの工事も同時に進みましたが、昭和14年4月19日に豆トンネルは貫通。
国道トンネルの試掘坑道よりもわずか1週間早く完成しているので、日本で最初に貫通した海底トンネルはこの「豆トンネル」ということになります。
ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのは昭和14年9月1日。
そんな軍靴の高まる中、中国侵攻を見据えての完成でした。
2025年3月23日(日) にはJR九州により、午前の部、午後の部各20名限定で、「豆トンネル」の初公開も実施。
今後はこうした公開(限定ツアー)が行なわれるのかもしれません。

関門海峡を貫通する知られざる「豆トンネル」は、日本最初の海底トンネル!? | |
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