多気北畠氏城館

多気北畠氏城館

三重県津市美杉町上多気にある伊勢国司・北畠氏の城館が、多気北畠氏城館。南北朝時代に、南朝方として伊勢に入り、南北朝が統一後、伊勢国司としての地位を保ち、守護大名として室町時代を生き抜いた北畠氏の伊勢支配の拠点。国の史跡に指定され、続日本100名城に選定されています。

中世に南勢を領有した北畠氏の居館跡

延元元年・建武3年(1336年)、『神皇正統記』で名高い南北朝時代の公卿・北畠親房(きたばたけちかふさ)、次男・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)が田丸城(現・三重県度会郡玉城町)を築城し、伊勢に土着したことが北畠家の伊勢支配の始まり。
後醍醐天皇の建武の新政では、政権中枢、そして南朝方の総司令官として活躍しているので、常陸国など東国での武勇も多く、北畠親房自体は伊勢に滞在することは少なかったのだと推測できます。
代わって、次男の北畠顕信と三男・北畠顕能(きたばたけあきよし)が伊勢を守備し、延元3年・暦応元年(1338年)に北畠顕能が伊勢国司に任ぜられています。

北畠氏が、田丸城や、多気を拠点としたのは、神宮(伊勢神宮)の存在、南朝を支持する南伊勢の諸勢力があったことに加え、東国と連絡する要衝だったことが挙げられます。

興国3年・康永元年(1342年)、田丸城が落城したことで、多気に拠点を移し、多気北畠氏城館と霧山城を築いています。
織田氏の伊勢侵攻で、北畠家の第8代当主・北畠具教は、娘・雪姫を信長の次男で田丸城を領有した織田信勝(おだのぶかつ)に嫁がせ、表面上は信長に恭順していましたが、甲斐の武田信玄とも密約を結ぶなど、生き残りを模索していました。

そんな状況を背景に、天正4年11月25日(1576年12月15日)、織田信長の意向で、織田信勝の命を受け、田村城主・田丸直昌は同族の長野具藤(北畠具教の次男)、北畠親成(北畠具教の三男)、坂内具義(北畠具教の娘婿)らを田丸城に呼び寄せて殺害、北畠家第9代当主・北畠具房(きたばたけともふさ)を長島城に幽閉しています(三瀬の変)。

天正4年(1576年)、織田信長の支配に代わるまで、この多気が北畠氏の拠点として繁栄し、永正18年(1521年)頃には現存する北畠氏庭園なども作庭されています。
伊勢国司で北畠家第7代当主・北畠晴具(きたばたけはるとも)の義父で室町幕府31代管領(かんれい=室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職)・細川高国(ほそかわたかくに)が築いた池泉観賞様式の武家書院庭園。
北畠氏館跡庭園、現在は、北畠神社境内にあり、国の名勝に指定されています。

平成8年から行なわれた多気北畠氏城館の発掘調査では、日本最古ともいわれる石垣などが見つかっています。
霧山城から北畠神社に至る広い範囲が多気北畠氏城館跡として国の史跡に指定。
続日本100名城としては、多気北畠氏城館の名称で選定されています(スタンプは北畠神社社務所に設置)。
津城も続日本100名城選定なので、津市には続日本100名城が2つあることに。

多気北畠氏城館
名称 多気北畠氏城館/たげきたばたけしじょうかん
所在地 三重県津市美杉町上多気
関連HP 津市公式ホームページ
電車・バスで JR伊勢奥津駅から津市コミュニティバスで10分、上多気交差点下車、徒歩10分
ドライブで 伊勢自動車道一志嬉野ICから約25km
問い合わせ 津市生涯学習課 TEL:059-229-3251/FAX:059-229-3257
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
田丸城

田丸城

三重県度会郡玉城町(たまきちょう)にある南北朝時代に南朝の拠点として築かれた城が田丸城。神宮(伊勢神宮)を抑える要衝で、戦国時代には北畠家の家督を相続した織田信雄(おだのぶかつ=織田信長の次男)の居城となり、近世城郭に改修されています。続日

津城

津城

三重県の県庁所在地である津市は、中世、伊勢湾の交易を支えた三津七湊の一つ、安濃津(あのつ)に由来する地名。その安濃津を眼前に、戦国時代に築かれた城が津城(安濃津城)で、江戸時代には築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として改修され津藩の藩庁と

三重県六大名城

三重県六大名城とは!?

戦国時代に織田信長が一揆軍に手を焼き、江戸時代初期には徳川幕府が大坂城へ睨みを効かせた三重県(伊勢・伊賀)。日本100名城に選定の伊賀上野城、松坂城、続日本100名城の津城、多気北畠氏城館、田丸城、赤木城が三重県六大名城で、築城の名手、藤堂

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ