津城(お城公園)・藤堂高虎公像

津城(お城公園)・藤堂高虎公像

三重県津市丸之内、津城(お城公園)に立つのが、藤堂高虎公像(とうどうたかとらこうぞう)。お城公園は津城の本丸と西之丸の跡、そしてそれを取り囲む内堀を公園化したもので、本丸跡に立つのが伊勢津藩の初代藩主となった藤堂高虎の像です。

津藩の藩祖で、県都・津市の原型を築いた藤堂高虎の騎馬像

黒田孝高(くろだよしたか=黒田官兵衛)、加藤清正と並び「築城三名人」のひとりに数えられる藤堂高虎。

藤堂高虎は関ヶ原の合戦では東軍に与し、その軍功で宇和島城8万石の安堵に加え、今治12万石が加増され、今治城を築城。
さらに天下普請の江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)、伊賀上野藩主・筒井定次(つついさだつぐ=重臣・中坊秀祐が悪政などを幕府に進言し、取り潰しに)の改易と伊勢津藩主・富田信高(とみたのぶたか)の伊予宇和島藩への転封で、今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡・一志郡内10万石の計22万石に加増移封され、津藩主となっています。

伊賀国、伊勢国は尾張へと通じる東海道の要衝で、当時は西国(大坂城の豊臣方)への睨みとして重要な地。
豊臣恩顧大名でありながら家康の忠臣(別格譜代の厚遇)である藤堂高虎をこの地に配して、大坂方を刺激することなく、防備を固めたのです(藤堂高虎は、最終的に32万3000石を領する大大名に)。

藤堂高虎は、近世的な津城の城郭普請、さらに城下町整備を進め、現在の県都・津市の基盤を築いたのです。

津城の遺構は天守台などの石垣、内堀などを除いてほとんど現存せず、再建されたコンクリート製の丑寅櫓も、史実を無視した観光用の模擬櫓。

手がけた城は居城として宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城。
徳川幕府の天下普請としては膳所城(ぜぜじょう)、伏見城、江戸城、篠山城、丹波亀山城、大坂城、二条城と、まさに拠点の城の築城に駆り出されています。

藤堂高虎の像は、津城のほか、伊勢への転封前の居城・今治城にも立っていますが、どちらも凛々しい騎馬像です。

津城(お城公園)・藤堂高虎公像
名称 津城(お城公園)・藤堂高虎公像/つじょう(おしろこうえん)・とうどうたかとらこうぞう
所在地 三重県津市丸之内27
関連HP 津市観光協会公式ホームページ
電車・バスで 近鉄名古屋線津新町駅から徒歩15分
ドライブで 伊勢自動車道津ICから約4km
駐車場 津商工会議所前市営駐車場(有料)を利用
問い合わせ 津市教育委員会生涯学習課 TEL:059-229-3251
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
津城

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