これまで何度も映画やテレビ化される『水戸黄門漫遊記』、『水戸黄門』。水戸の黄門様こと徳川光圀(とくがわみつくに)が、助さん、格さんを引き連れ、諸国を漫遊し、悪代官などを懲らしめるという勧善懲悪ストーリー。ところが実際の徳川光圀は、箱根峠を越えたことは一度もなかったのです。
水戸黄門は熱海、鎌倉、日光、房総と藩内しか旅していない
まずは水戸黄門こと、徳川光圀のおさらいを。
水戸藩の第2代藩主・徳川光圀は、徳川家康の十一男・徳川頼房(とくがわよりふさ=水戸徳川家初代)の三男、つまりは家康の孫ということに。
儒学を奨励、「彰考館」(しょうこうかん)で『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎を築いたこともあって名君とされています。
徳川光圀は、「彰考館」の佐々宗淳(さっさむねきよ=助さんこと佐々木助三郎のモデルとも)に命じて鎌倉の地誌『新編鎌倉志』全8巻12冊を編纂していますが、ベースは延宝元年(1673年)の徳川光圀の鎌倉見学です。
英勝寺を拠点に、鎌倉を巡っています。
英勝寺は徳川家康の側室で、光圀の父である徳川頼房の養母・英勝院の菩提寺。
徳川光圀が世子時代に、3代将軍・徳川家光に拝謁した際にも、英勝院が同伴するというかたちでした。
鎌倉唯一の尼寺の英勝寺は、代々水戸徳川家の子女を門主に迎え、光圀も滞在したことから「水戸御殿」などとも称されていました。
光圀は鎌倉には思い入れが強く、現在、観光ガイドなどで紹介される「鎌倉七口」、「鎌倉十橋」なども『新編鎌倉志』が選定したもの。
鎌倉への旅は、父・徳川頼房に伴われてが最初で、父に連れられての旅としては、日光東照宮参詣、家康が源頼朝にあやかって再興した伊豆山権現(現・伊豆山神社)のある熱海(徳川家康お気に入りの温泉地、3代将軍・家光は「熱海御殿」を造営)があります。
徳川頼房が光圀を帯同して熱海に滞在したのは、寛永20年(1643年)の秋のこと。
1ヶ月弱湯治していますが、このとき頼房は光圀に意見をしたことが記録に残されています。
徳川光圀は、長男でもなく三男、しかも側室の子でしたが、頼房は世子に抜擢。
周囲から「さすがは世子」といわれるような行為をすることを光圀に求めたのです。
こうした嫡男ではないという立場と、父・頼房に反抗的な態度で傾奇者(かぶきもの=戦国時代末期〜江戸時代初期、派手な身なりをし、常識外の行動に走る者)だった青春時代が、後に孝行を重んじ、名君となる土台となったのです。
徳川光圀は水戸藩内の巡視にはしばしば出かけていますが、北は勿来の関(なこそのせき=福島県なので唯一関東を越えています)、南は安房勝山(水戸から鎌倉に移動の際、上総湊から船で三浦半島に渡っていますが、その際に勝山に足を伸ばしています)、西は熱海が最遠の地。
箱根峠を越えたことのない徳川光圀ですが、箱根七湯には明国の儒学者・朱舜水(しゅすんすい)を伴って塔ノ沢温泉(湯治場「元湯」と呼ばれた時代)で湯治しています。
実は、「水戸黄門」としての徳川光圀が誕生するのは、江戸時代後半。
伊勢参り、金毘羅、信州・善光寺参りなど、空前の参詣ブーム(旅行ブーム)が起きたことで、『水戸黄門記』(俳人・松雪庵元起とともに奥羽から越後にかけて漫遊)が記されたのが最初です。
その意味では、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』と同じですが、徳川光圀は『水戸黄門仁徳録』という勧善懲悪話も生まれます。
光圀が手掛けた『大日本史』、明治39年になって初めて完成しますが、その直前に大阪の講談師がお供に助さん(佐々木助三郎)、格さん(渥美格之進)を登場させた『水戸黄門漫遊記』を創作、これがヒットし、大正時代には講談話をまとめての本も出版されるように(講談本を出版する会社=講談社)。
その後、活動写真、映画が始まると、100本を超える『水戸黄門』作品が世に出て、諸国漫遊のイメージが定着したのです。
ちなみに徳川光圀は2028年に生誕400年を迎えます。
水戸黄門は熱海以西には行ったことがない!? | |
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