国富町六野原のトーチカ

国富町六野原のトーチカ

宮崎県東諸県郡国富町にある太平洋戦争の戦争遺跡が、国富町六野原のトーチカ。六野原の広大な台地には、昭和18年11月、大刀洗陸軍飛行学校・木脇教育隊が開校され、周辺には4基のトーチカが畑の中に現存(もっとも南のトーチカは史跡として保護されています)。

アメリカ軍の宮崎上陸を想定して築かれたトーチカ

太平洋戦争末期、国富町(当時の地名は本庄)は宮崎平野防衛の拠点として機能し、アメリカ軍が宮崎の海岸線に上陸した場合には、国富町に本部を置いた陸軍第156師団が迎え撃つ計画で、現在はのどかな田園地帯が広がるなかに、六野原飛行場が築かれていました(大正15年に700mの補助着陸場を開設)。
当時、開拓地だった台地一帯は、日中戦争の激化とともに、昭和17年に軍用地となり、労力奉仕隊の力を借りて人海戦術で滑走路の整備などが行なわれました。
三十数基の古墳は、一部は移設されましたが、多くは発掘調査もないままに破壊され、消滅。
こうして、昭和18年10月、陸軍六野原飛行場が完成しています。

この飛行場は大刀洗陸軍飛行学校・木脇教育隊が利用し、昭和20年5月の閉校まで、1年6ヶ月の間、甘木生徒隊を中心に少年飛行生、特幹生による操縦訓練が行なわれました。
六野原飛行場で教育を終えたパイロットは、その多くが特攻隊へ配属され、命を散らしています。
木脇教育隊跡には平成元年11月に記念碑が建立されています。

畑の隅に残る4基のトーチカは、アメリカ軍が上陸した際の陸戦に備えて築かれたもので、頑強なコンクリート造り。
宮崎県各地の軍用飛行場は凄まじい空爆を受けますが、六野原飛行場はあまり爆撃を受けることなく、終戦を迎えています。
戦後、飛行場跡は農地に戻され、往時を偲ぶ戦争遺跡は、トーチカと弾薬庫跡くらいになっています。

国富町六野原のトーチカ
名称 国富町六野原のトーチカ/くにとみちょうむつのばるのとーちか
所在地 宮崎県東諸県郡国富町八代北俣
関連HP 国富町公式ホームページ
ドライブで 東九州自動車道国富スマートICから約8km
問い合わせ 国富町教育委員会社会教育課 TEL:0985-75-2361
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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