芳徳寺

芳徳寺

奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派の寺が芳徳寺(ほうとくじ)。寛永15年(1638年)、大和国柳生藩主で、将軍家兵法指南役の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が開基、柳生の里を一望する山王台に建てられた寺は、以後、柳生家代々の菩提寺となっています。

柳生一族の菩提寺は、柳生を見渡す高台に

柳生家は、12世紀中頃から春日神社(現在の春日大社)の荘園管理者として柳生に土着した豪族。
芳徳寺は、寛永15年(1638年)、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が父・柳生宗厳(やぎゅうむねよし=石舟斎)の菩提を弔うために沢庵禅師を招いて開いた寺。
寺の名も、柳生宗矩の柳生宗厳の法名「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」に由来しています。

大和国の領有が、豊臣秀吉の命で筒井氏から秀吉の実弟・豊臣秀長に移ると、筒井氏配下の家臣は伊賀に移るか帰農することになり、柳生宗厳も所領が没収されたことから、文禄2年(1593年)、剃髪・入道して石舟斎と名乗り、新陰流(しんかげりゅう/柳生新陰流は俗称)の兵法家に転身。
「世を渡るわざのなきゆへ兵法を 隠れ家とのみたのむ身ぞ憂き」(『兵法百首』)と、落ちぶれた我が身を自嘲しています。

文禄3年(1594年)、黒田長政の取成しで、京・鷹が峰で、徳川家康を相手に、無刀取りの技を見せ、家康の家臣となり、関ヶ原の合戦では家康の本陣で参戦し、戦後に柳生庄の本領2000石を回復。
息子・柳生宗矩を将軍家の剣術指南に推挙し、宗矩は、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に新陰流を伝授し、柳生家繁栄が始まったのです。

柳生宗厳の墓所も同じ柳生の中宮寺(ちゅうぐうじ)にありましたが、芳徳寺の創建で、芳徳寺に移されています。
北側から高台の芳徳寺へ登る坂が霊源坂で、その中ほどに柳生宗厳(石舟斎)の居館があり、門前に柳生宗矩の子・柳生三厳(やぎゅうみつよし=柳生十兵衛)が1万3000人の門弟を錬成したと伝える正木坂道場がありました。

明治初年の廃仏毀釈では、柳生藩柳生家の後ろ盾を失い、荒廃。
明治末には無住の寺になりましたが、大正11年、尾州柳生家の末裔・柳生基夫が兄・柳生一義(元台湾銀行頭取)の遺志を継いで多額の資金を寄進、再興されています。
江戸時代建立の本堂は、奈良市の文化財。

本堂には本尊・釈迦如来坐像のほか、柳生宗矩、沢庵和尚の像が安置されるほか、柳生十兵衛が書いた秘伝書の『月の抄』が展示されています。
境内には、柳生家一族累代之墓所があり、奈良市の史跡に。

芳徳寺
名称 芳徳寺/ほうとくじ
所在地 奈良県奈良市柳生下町445
関連HP 奈良市公式ホームページ
電車・バスで 近鉄奈良駅から奈良交通バス柳生・邑地中村行きで50分、終点下車、徒歩15分
ドライブで 名阪国道針ICから約16km
駐車場 柳生観光駐車場(50台/有料)
問い合わせ 芳徳寺 TEL:0742-94-0204
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
旧柳生藩陣屋跡

旧柳生藩陣屋跡

奈良県奈良市柳生町、寛永19年(1642年)、柳生藩初代藩主・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が菩提寺の芳徳寺建立後、3年を費やして建てた坪数1347坪(『柳生藩日記』)の陣屋の跡が旧柳生藩陣屋跡。徳川家の剣術指南役だった柳生家は城を保有せず、

旧柳生藩家老屋敷

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